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住まいの夢工場見学会(3月11日)

このところ、土、日曜日と関係なく仕事や活動をしているので、本当は今日はゆっくりしたいところですが、「日本女性会議2007ひろしま」の協賛金を集めるためと実行委員の親睦会を兼ねて「住まいの夢工場見学会」(積水ハウス株式会社主催)に出かけました。

この見学会会場は、山口県の防府市の広大な土地に「家づくり体験テーマパーク」と銘打って、さまざまな施設やモデルハウスが建てられています。見学者はここで楽しみながら疑似体験や理想的な住宅に関する情報を得ることができるようになっています。初めに、①協賛金を集めること、②実行委員の親睦会を兼ねる、と書いていますがこれには訳があります。この見学会に関しては、防府市までの貸し切りバス代、昼食(バイキング)、飲料&パンなども含めてすべてセキスイ側のサービスであり、その代わりとして、協賛金として一人につき一口1,000円を女性会議の分科会用の支援金とするということになっているのです。

朝9時に広島駅を出発して約2時間半。車中では、セキスイの社員さんから、今日の見学内容の説明を受けました。その後は、女性会議内で超有名な府中町町会議員のSさんの漫談風「男女共同参画に関するお話」を聴いたり、一人一袋(中には5袋、10袋くらい)のお菓子をみんなで交換しつつ総勢19名が大笑い、大騒ぎをしながら防府市を目指しました。到着した時には、すでに11時半ということで食堂へ直行。デザートのケーキ・果物つきのバイキングの昼食を頂きました。ちょっとしたレストランのバイキング並みで種類も多く、平素の昼食とは大違いの内容に話は弾み、中には「食べ過ぎた!」とカロリーオーバーを案ずる人もいました。

さあ、昼食後は、いよいよ「住まいの夢工場」の見学です。まず、最初は「イン・ザ・ダーク(自然災害体験館)」。入り口で特殊な眼鏡を受け取り、スクリーンの前に座りました。電気が消えると、スクリーンから自然災害(台風、地震、火災)の状況で目の前まで様々なものが飛び出し、襲いかかり、思わず体を避けるような体験トラベルをしました。次には、「ジャイアント・ラボ(安震館)」で震度7相当の大地震と840度まで燃え上がる大火災を体験できるアトラクションでした。ここでは、「耐震住宅」と「免震住宅」との差を体験するようになっており、私は臆病なのでこの体験は辞退しました。両方を体験した人によると、いかに「免震住宅」が人々の恐怖に与える影響が少ないか、ということを体験したとのことでした。実は、セキスイハウスは阪神大震災の時に1軒の家も倒壊していないとのこと。ここでは、たとえ大震災があったとしても倒壊しないための、耐震性能、耐風、防耐火、耐久性能も高い安全な家だというPRが、しっかりとされていました。

そして、次の館は「テラの国(地盤コーナー)」で、地盤調査に関する情報を、実際に行う方法のモデルを示されながら説明を受けました。例えば、広島は、もともとデルタ地帯であるため地盤が軟弱であり、そのためには、どのような対策が立てられているか、ということです。その後は、いい材料&いい職人が少なくなったといわれる現代、強く進化した木造住宅の強さの秘密を知るための「木のワンダーランド」を見学。次の「五感のファンタジーランド(快適生活館)」では、次世代省エネ住宅の断熱性能(二重ガラスや断熱ガラスの使用など)、健康的な空気環境などが考えられていました。最後は、「防犯のミステリーランド(なるほど防犯館)」で侵入されやすい家と侵入されにくい家を見ながら、「生命や財産を守る家」としの最良のモデルを見ることができました。

これが私たちが見学したコースですが、そのプロセスの途中で、典型的な洋風住宅と典型的・伝統的な和風住宅を見学しました。洋風住宅は、シンプルモダンをテーマとしてシースルーの階段や真っ白な壁でコーディネートされていました。和風住宅では、古き良き日本の面影が一杯の家で、二間続きの和室、土間リビング、和風キッチンという間取りでした。

洋風住宅を見学したときには、そのモダンな様式に憧れのようなものを感じましたが、その後和風住宅へ行ったときに、玄関へ入った途端からなんともいえない安らぎを感じ、安心感を覚えました。そして、木をふんだんに使うと共に、畳のある和風住宅に「私は日本人だ!」とに恩人であることを強く自覚しました。こういう感じで半日セキスイの社員さんにいろいろとお世話になりましたが、どの社員さんもごく自然に「顧客第一」の姿勢が貫かれており、とても穏やかで、爽やかな気持ちで体験ツアーを終えることができました。
『企業は人なり』。当たり前のことですが、その哲学・姿勢がすべての面で一貫しているところに学ぶ点が多々ありました(これは決して積水ハウス株式会社のPRでもなく、無料でお世話になったからというお世辞でもありません。私の真実の思いです)。

# by eastwatery | 2007-03-11 22:36  

「男のロマン講座~人生を二度楽しむ~」(3月9日)

2月26日のブログにも書いていますが、今日は「男のロマン講座~人生を二度楽しむ~」がF公民館で実施されました。以前のブログを読んでくださっている人は、ある程度の話の流れは分かると思います。

Sさんご夫妻は、広島では「熟年夫婦、ハーレーでアメリカ横断」という話で有名なご夫妻です。初めに広島市女性教育センターに団塊世代対象の企画講座を依頼されたときに、私が講演者として来ていただきたいと思った第一の候補者がSさんご夫妻でした。今日はその思いがかなって、ワクワクドキドキの講座となりました。

ご夫妻は、今まで子どもを通してあった人との付き合いが、3人の子どもさんの自立により、だんだん減ってきて新たな人生を考えているときに「ハーレーでアメリカ横断」を考えるチャンスに出会いました。そして、5年間をかけて体力増強などの計画を立てて実行しました。目的は、アメリカのミルウォーキーで開催される10万台のハーレーが集まるフェスティバルが開催されるので、それに参加することでした。ご夫妻はアメリカ留学中に知り合い、結婚されたとのことで英語力は十分あります。しかし、彼はあちこちでの講演で必ず話すことがあるといわれました。大事なことは、「英語が話せる」ということではないということです。Sさんは、様々なところで「よく、こんなことを実行することができましたね」といかにも特別のことのように言われるが、誰でもできることだと言われます。

では、なぜ人々は「ハーレーでアメリカ横断」をしたいと思っても、実行しないのか? ということです。それは言い訳が多すぎると言うことです。例えば、言い訳のタネは「体力がない、年をとりすぎている、仕事はどうする?、お金は?旅行できる時間は?・・・」といろいろあります。Sさんは、こういうことを一つひとつ、どうクリヤーしていったのか? Sさんは言います。「やりたいという気持ちが違います。やりたいと決めたら、次は、どうすれば問題点を解決できるか?を考え、できる工夫を考えます。Sさんはハーレーで横断できる体力をつけるために1ヶ月140km~150kmランニングをしたとのこと。

また、この計画を実施に移したとき、初めに「もし、目的の途中までしかいけなくてもOK、だけどもハーレーのフェスティバルに行けたらかっこいい」という感じで、何が何でもという気持ちでは、なかったそうです。しかし、実際には、予定通りのスケジュールでハーレーのフェスティバルには間に合って参加できたのです。そこでは、60歳代~80歳代のハーレーのライダーが多く集まっていたとのことでした。ミルウォーキーまでの旅では日の出と共に出発し、場所によっては33度から44度のところもあったということです。そんな過酷な旅を終えたご夫妻は、10年前と今とでは考え方が変わったといわれます。過酷であっても楽しく充実した旅ができたのは「チャンス」と「人の支援」があったからだと、さらりと言われましたが、チャンスをつかもうと日頃から興味関心、をもっていらっしゃること。そして、人が、何とかSさんご夫妻を「支援したい」と思わせるほど、人格的に魅力があるということです。その魅力の秘訣は、人に対する「寛容、愛情、信頼」と「愛されるより愛するほうが先」という生きる姿勢にあると思いました。また、「楽しいこと」は確かに大事なことだけど、楽しい事だけであれば、やがて飽きてくる、しかし、ちょっと不安があれば人間はがんばれるものだ」という、徹底したポジティブな考え方です。

Sさんは現在経営している学習塾を辞めて、来年は3年間の予定でバングラディシュに行き、バングラディシュの子どもたちのために学校を建設すると言っておられます。ものすごくスケールの大きな夢と自己実現だと思います。

今日は夫も1受講者として、この講座に参加しましたが、「人生、何に価値観をおいて生きるかと言うこと、人とつながりながら生きている」というところは私たち夫婦と同じ考え方だが、自分たちと比べスケールの大きさが全然違うと感動していました。

受講者の人たちもSさんご夫妻からは「豊かな愛情と莫大なエネルギー」を頂いて、これからの第三の人生を少しは考えることができたのではないかと思いました。また、とても充実して楽しかった講座だと思ってもらえたようでした。その証拠に、講座終了後、受講者の人たちはみんな、来たときと較べたら表情が豊かになり、明るくなり、笑顔で帰っていかれました。

Sさんは帰るときに私に手作りの素晴らしいカレンダーのノートをプレゼントしてくださいました。これは、毎年訪れた国の写真を貼り、手書きのカリグラフィーで書いた数字や字を書いたノート風のカレンダーで、彼が毎日夜中の3時まで起きて150冊作成してくださったうちの1冊です。これから毎日このカレンダーを見ながら、Sさんご夫妻から勇気とエネルギーを頂きたいと思っています。

# by eastwatery | 2007-03-11 00:44  

日系アメリカ人リーダーシップ・シンポジュウム(3月9日)

国際交流基金日米センターは、全米日系人博物館と共催で、2003年から毎年「日系アメリカ人リーダーシップ・シンポジュウム」を実施しています。今日は、広島県などの後援を得て、広島平和記念資料館で、このシンポジュウムが行われました。コーディネーターは、日本側が広島大学の教授(男性)、日系アメリカ側が全米日系人博物館館長(女性)、パネリストは、ある州の郡運輸局長(男性)、学校教師(女性)、ある郡公立学校委員会事務局長(女性)で、すべて日系アメリカ人でした。

過去のシンポジュウムでは、日系人コミュニティからみた現代アメリカ社会と市民活動、アジア系アメリカ人の多様性、多文化共生実現への道、多様な職業を通じた日系アメリカ人の貢献といったテーマで、日系人リーダーたちの活躍を紹介してきたようです。今年は標記のテーマで,現在の日系アメリカ人の職業、ライフスタイルなどの多様性は日系人たちの過去の歴史を反映しているというところから始まりました。

日系アメリカ人の歴史は、重大な岐路の連続でした。移民として「日本を離れること」の選択、移住先の選択、戦争時の母国をめぐる選択、収容所での選択、戦後の再定住地の選択など、岐路にたった一世・二世の選択と生き方が今日の三世・四世の多様性を生み出したということでした。現在、アメリカの新世代は、自分たちのキャリアや結婚を通じて、日系人であることのアイデンティティ問題に直面しており、現在もまた、大きな岐路に立っています。Aさんは、アメリカでシアトルにある二世が立ち上げた「日系コンサーンズ」の高齢者ホームにかかわっていますが、三世・四世は多様な家族、他の人種との交流により日系社会から離れている上、彼らの価値観に変化があるため、組織を改変していく必要があると言っておられました。

学校の教師をしているBさんは、1964年東京オリンピックが開催された年に、ある町を訪れ「Jap Road」と名のついた道路があるのを知りました。そのときには自分にとっての岐路であったと語りました。その思いを抱えて、ついに2002年「Jap」と言う侮辱的な名前の道路を変えたいと嘆願書を集める運動をした結果、運輸省・住宅開発省が、その名前を変更することを承諾したと、その経緯を話されました。この活動を通じて彼女が思ったことを、教師として常に生徒に次のようなことを伝えているそうです。①人脈、ネットワーク、善意を持って多くの人とかかわること、②自分が良いと強く信じて立ち上がれば、よりよい人間になれる、③アメリカは人種のモザイクであるが、対話をしてみると、みんな共通の目標があることが分かる。それは、「平和の実現」であると言うこと。彼女は、祖父母、父母がアメリカ社会で侮辱されたことを知っており、その話をするときにはコーディネーターの日系アメリカ女性も涙を拭いていました。彼女たちの親は、第二次大戦中、強制収用所に入れられ、何の発言もできず、人生を奪われたのだと言われました。

最後の学校委員会事務局長のCさんは、自分自身が今、日系アメリカ人として岐路に立っていると言われました。と言うのは、「成長する中で家の中だけの文化を受け継いできたために、社会へ出ると外観だけで部外者と思われる。しかし、自分には両親から受け継いだ文化があり、日本人としての特徴を隠すことはないと思っている。二人の娘には日本の伝統文化を受け継ぐことはできる」と、日本人としての誇りはしっかりと持っておられました。

平和教育については、子どもたちには「自分は、人にどのように扱ってもらいたいのか」ということを考えて人に対応するように教えているとのこと。戦争の悲劇について生徒に話し、世界にはいろいろな人がいる、と言っているとのこと。意外だったのは、授業の中でアジア系アメリカ人については、あまり教えられていないので、原爆、広島のことなどについても子どもたちは知らないと言うことでした。これは、アメリカにまだ人種差別の感覚が残っているということかもしれません。

最後にコーディネーターのDさんが、「日本に対するイメージは第二次大戦以後、変わった。イメージは主にテレビ、本、新聞などから得られているが、アニメなど、日本から学びたいと思っている人が多く、年々日本のイメージは変化している」とのことでした。書けば切りがないほどの内容のシンポジュウムでした。

日系アメリカ人は、これからどのように生きていくのでしょうか。 新世代の日系アメリカ人は、日本とどのような関係をつくりあげていくのでしょうか? 移民後、一世・二世が死ぬ思いをしながら日系社会を形成していったことを三世・四世の人たちは忘れず、それに敬意を払って、日本のいい点も取り入れながら日米両国の平和に貢献する人になっていただきたいと思いました。
同時に、私たち日本人も、日系アメリカ人の思いや苦悩も汲みながら生きていくことが求められていると思いました。

# by eastwatery | 2007-03-10 02:03  

社会人サポーネットのある大学(3月8日)

私が約3年前に「SGネットきらめき」を立ち上げた後、しばらくして、一人の40歳代の女性が大学院臨床心理学科へ進学するための相談・支援をしました。その人、Aさんが3月20日に大学院を修了します。その後は、半年後の臨床心理士試験までは、非常勤の心理職の仕事をしながら、臨床心理士の資格取得を目指すとのこと。

「SGネットきらめき」を立ち上げたときの私の思いは、社会人学生のOB/OGが、自分の経験や修得した知識を活用して、これから大学進学を目指そうとする社会人入学希望者に対して支援活動をして欲しいと思っていました。しかし、これまでは卒業・修了した人は就職後、時間がないということで、なかなか支援活動にまでかかわる人はいませんでした。

しかし、Aさんは自分が社会人学生として大学院進学をしたときに、若い学生の中で自分の存在の心細さから他の社会人学生の二人と共に大学内に「社会人サポートネット○○支部」を立ち上げてくれました。それが形になるまでは大学の教員などに場所の提供を、学生サポート課には、ポスターの掲示などで世話になりました。準備が整ってその会を立ち上げた日、12名の学内の社会人学生全員が集まって、ジュースとお菓子で乾杯したことは、忘れないと、彼女は言っています。しかし、週に1回は、大学から借りた部屋に集まってお互いに悩みを言ったり、相談しあったりする会も、時間が立つにつれ、各自が居場所を見つけて会から足が遠のいていったそうです。彼女は寛容な心で「このことは、少し寂しいものの、一方では、それが良いことなのだと思っています」といっていました。

そういう時期もありましたが、会が活用されたと実感したこともあったとのこと。それは、昨秋、大学院を受験しようとしたBさんに出会い、院生1年のCさんと共にBさんへのサポートをした時のことです。二人でしたサポートは①近隣の大学院の情報提供、②受験大学(Aさん、Cさん在学中)の大学院入試の傾向と対策、③オープンキャンパスへの参加の勧め、④科目等履修生としての科目のとり方、⑤学習のためのテキストの紹介、⑥過去問の提供、などです。

その結果、Cさんはもともと能力があり、モチベーションも高い人ではあったのですが、科目等履修生となって、わずか2ヶ月足らずで大学院に合格しました。それはAさん、Cさんにとっても喜びと共に驚きだった、ということです。Aさんは、「SGネットきらめき」でサポートされながら受験し、いろいろな先生に紹介され、入学後は精神的に支えてもらったったことが、こうした支援活動につながっていると言ってくれました。彼女たちのサポートは見事なものでした。私が考えた以上の素晴らしい支援をしてくださったのです。私の跡継ぎができたと思いました。

またAさん、はこうも言っています。大学院に合格が決定したBさんがまるで若い学生の中にずっといた感じで、学生たちとなじんでいる姿を見たとき、深化した「社会人学生サポートネット」の存在の大切さを感じ、この会は第2段階に入ったと思ったそうです。それは、私が以前から望んでいた「入学後の先輩の社会人学生が新入生の社会人学生に、社会人学生としてのノウハウを教え、それをまた、次の学生に伝える」ということでした。現在の日本では、まだまだ社会人学生はマイノリティでもあるし、偏見もあります。しかし、それでも徐々に多くの大学で社会人学生が普通の学生と変わることなく、学習・研究できる日が来ることを、私も彼女も大きな期待をもって、これからも社会人学生を目指す人の学習相談・支援を続けて対と思っています。

3月20日は、Aさんの修了式です。小さな花束を持ってお祝いに駆けつけるつもりです。

# by eastwatery | 2007-03-08 23:10  

「ほのぼの伝言板から」(3月7日)

いつもは、1日の仕事がほぼ終わった頃にブログを書くのですが、今日は、とても感動したことがあったので、一刻も早くみなさんにお伝えしたくてパソコンに向かいました。

毎月「ほのぼの伝言板」を送ってくださるお米屋さんのSさんから196号が、送られてきました。、B4版1枚に、Sさんが編集された詩、エッセイなどが書かれています。
今日は、今回送られてきた伝言板に書かれていた文章をみなさんにぜひ読んでいただきたいので、紹介します(松崎靖さんの「虹の架け橋68号」から)。

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S先生は熊本県の中学校の数学の先生でした。生徒に人気のある、とても明るい先生でしたが、平成元年に『アミロイドーシス』という難病であることを宣告されました。この病気は、体の機能が次々に衰え、発症から10年~15年で死を迎えるという恐ろしい病気です。

教師を辞めることを考えたS先生に「あんたしかできん教育があるんと違うと」と同僚の先生から励まされ、体力の続く限り教壇に立ち続ける決意をしたそうです。S先生は、授業中いつも「問題を解き終わったら、人に教えろよ。自分だけできればいい、そんな人間にはなるなよ」と教えていたそうです。

病気が進行し、自分が運転できなくなってからは、奥様の運転で学校に通いました。学校に着くと数人の3年生がS先生をおぶって職員室のある2階まで行き、2階に着くと女子生徒が上履きを用意して待っていてくれたそうです。入試で3年生が来られなかった日は、2年の男子にその役目を頼み、後輩たちも1日も休まず続けてくれたそうです。

平成2年の卒業式の日、問題児と言われていた生徒が「はよう、バイクん免許ばとって、バイクば買って、サイドカーにS先生ば乗せて俺が送り迎えばしてやる。 免許ばとるまで、おらすやろか」とボロボロ涙を流したそうです。

S先生でなければできない「尽くし合い」の教育を命をかけて実践されたことに感動しました。  今はなきS先生のご冥福をお祈りいたします。
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「尽くし合い」、この言葉は初めて知りました。今まで、本、TV,新聞、雑誌からも聴いたことはありません。しかし、この言葉は一人では生きていくことができない、人と共に生きていく人間としては理想的な状態だと思います。みんなが「尽くし合い」をしていけば、「愛」が溢れた世界になるし、弱者も強者もなく対等な立場で人と人が結ばれると思います。

この文章を少し読んだだけで感動していたのですが、終わりごろに出てくる「問題児」のエピソードを読んだ時、思わず涙が出そうになりました。「なんと、思いやりに溢れた愛のある言葉でしょうか」。この高校生は、学校生活の中でいろいろな人に「問題児」として見られて、時には疎まれたこともあったでしょう。しかし、多分S先生が常に「人は助け合って生きるもの」といっておられたことの中に、自分自身の生き方を考えたのでしょう。そして、S先生が先生としてというより、一人の人間として自分の存在を見出して下さったことにより、より自尊感情を持つことができ、「○○のために生きていきたい!」と思ったのでしょう。

S先生のような取り組みをしていけば、いじめも戦争もDVも、世界で「悪」と言われるものはなくなるのではないでしょうか?そのことをS先生は、声高ではなく静かで、穏やかな、日々の中でで生徒に伝えていかれたのだと思い、深く胸を打ちました。
「教育とは?」と高邁な思想や哲学を述べなくても、S先生は「人間、いかに生きたらいいのか」を多くの生徒に伝えていかれたと思います。

この文章を教えてくださったSさんには、改めて感謝申し上げます。

# by eastwatery | 2007-03-07 15:42