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中国の一人っ子の結婚(3月31日)

先ほどNHKBS1を観ていたら、中国の一人っ子の結婚について放映していました。中国の「一人っ子政策」は有名ですが、人口減少を目指して行われた政策も今では、マイナス面が出てきています。そのうちの一つが、男女共になかなか結婚できないということです。しかし、男女共に晩婚化というのは日本でも問題になっていることなので、どこが、どう違うのか、興味を持って観ました。(我が家も息子が一人っ子なので、人事は思えません。)

中国の一人っ子の結婚問題は、親の方が子どもの結婚に対して「高学歴、一流企業勤務、親と同居か、すぐ近くに住んで孫の世話ができること、夫婦で働けること」などを親が子ども以上に望んでいることです。普通では、なかなか結婚話がまとまらないので、日本と同じように、中国にも結婚相談所を利用して相手を探そうとする人が男女共に多いということです。

この番組では、男女ともどちらかといえば、エリート(大学か大学院卒)を取り上げていました。男性の場合は、特に、親べったりで、生活的・精神的自立ができていない感じの人が数人登場しました。驚いたことに100回以上お見合いをして、まとまらない人もいれば、息子が相手の女性に会う前に両親が2時間も相手と話すという例もありました。2時間話した結果、両親の眼鏡にかなった女性は、やっと相手の男性とお見合いするということなど、どちらが結婚するのか分からないような例もありました。

また、ある一人の男性が何人かの女性とお見合いをしても、あまりにも男性が、おとなしすぎるのと、その一方で女性は、はっきりと自分の意見も述べるということが繰り返されていました。彼は、いつも両親がつける結婚相手の条件を考え、それに縛られているように思いました。

日本でも現在、30歳~35歳の男性の約44%が未婚ということを考えれば、中国とあまり変わりはないようですが、結婚しない、できない理由は、大きく違うところが1点あります。それは、日本では男性側の長時間労働が大きな要因となっているのです。ある30代後半の男性は「午後11時頃帰宅する毎日。同居している母親は、何も言わず自分の食事の世話をしてくれるが、これが妻となるといろいろうるさいだろう。会社で忙しくして、帰宅してまで妻の機嫌をとるということになるのはイヤだから結婚しない」と結婚しない理由を、そのように説明しました。私は、これは日本の晩婚化・未婚化が進む大きな要因だと思えます。

中国の場合は、両親が子どもの結婚に注文をつけ、過干渉、過保護になっている点が結婚できない理由になっているのとは、大きな違いがあります。中国の男性の親が特に敏感になっているのは、将来自分たちが面倒を看てもらうことになるのだから、「どういう女性なのか」を慎重に判断するとのこと。もちろん日本も、父親の場合は、息子・娘夫婦と同居を望む人が割合多いのですが、母親は、ケアハウスなどに入りたいという人も増えています(これは、日中の経済格差の違いをあrわしているかもしれません)。

私は、結婚当初から夫の母が亡くなるまで同居でした。お互いに、生きてきた環境の違いがあって、食べる物から始まって、あらゆる場面で気遣いが多く大変でした。だから、私自身の考えは、将来息子とは同居を望んでいないのです。しかし、夫は同居を望んでおり、16年前に家を建て替えたときも、増築しやすいような建て方にしました。

世間一般に言われている「スープの冷めない距離」というのも、ちょっと距離が近すぎるし、私たちが元気である限りはお互いに干渉しあわない距離が良いと思っています。でも、肝心なことは息子の考え方ですから、これはあくまで私の考え方です。さあ、我が家はどうなることでしょう?

# by eastwatery | 2007-03-31 23:48  

聴くことの力(3月30日)

私が電話相談について悩んでいるということで、電話相談員仲間で一番親しく付き合ってくださっているNさんが、「読んでみたら?」といって鷲田清一氏の講演録が含まれている本を貸してくださいました。

まず「ケア」について「ケア」を相手に「何かをする」ということばかりで、ケアを考えるのではなく、「何もしない」「何かをしない」という形で相手にかかわることの大切さを述べられています。一見受身に、あるいは無為にすら見える他の人とのかかわりが、実はケアという問題では、かなり本質的とこと。そして、こう述べておられます。「生きるということは『自分をケアすること』」であり、「自分をケアすることが、生きるということの基本的な形だということです。

また、「ケアは、その人にとって何が幸福であるかを考え、その人にできないセルフケアを支え、そして距離を置いて見守る関係である」と「ケア」を定義づけておられます。このように考えて「聴く」についてケアはどうあるのかといえば、『聴く』という行為は単純に何もしないで耳を傾けるという受動的な行為ではなく、語る側にとって『言葉を受け取ってもらった』という確かな出来事だということです。

相談員が、そのようにすれば、直接何かをしなくても、ただじっと見守っている、何もしないで、ただ傍らにいるということだけで非常にポジティブな力を生み出していくような場面が意外と多くある、と鷲田氏は言われます。「聴く」という行為は多くの人が日常的にしていることですが、他人の言葉をそのまま聴くというのではなく「他人を聴く」、つまり他人の存在をそっくりそのまま「聴く」ということが、本当の意味で「聴く」ということ。

これが本当に難しいのです。つい、相手を「何とかしてあげたい」「自分は何か良いアドヴァイスをしてあげたい」という気持ちになりますが、それが一番いけないことです。コミュニケーションをするとき相手を理解しようとすることは、決して相手と同じ気持ちになるではなく、「その人がつぶやいたことの意味を理解する」ことであるとのこと。すなわち、本当に相手が分かるのは「違いが分かる」ということだと鷲田氏は言っておられます。

そして「違いが分かる」段階から、相手が言ったことに対して「そういう感じ方もやはりある」と受け入れることが本当の意味で理解するということだと、「聴く」を分かりやすく定義されています。しかし、実際にそのようにしようとするのは、一番難しいことです。というのは、それをこころがけていても、相手を受け入れることを忘れ、「違いが分かった後に、自分の考えを伝えようとする」というのが、私のこれまでの相談スタイルだったと気づきましたしかし、それでは相談者は、「自分の気持ちを聴いてもらっていない、自分の存在を受容してもらっていない」ということになるのです。とても大事なことを気づかせていただききました。

この本を貸してくださったNさんは、知的ですが、ハートもあり、控えめで私の話をよく聴いていただきました。世代で言えば、私が母親で彼女がその娘という感じなのですが、私にとって、彼女は母親のような存在です。しかし、残念ながらお連れ合いの転勤により、僅か1年の広島住まいで今度は神戸市へ転勤です。しばらく寂しくなります。

しかし、人の心、親しさというのは、距離には関係ないし、付き合った頻度でもなく、どれだけ心通い合わせたかということだと思っています。 引越し作業が一番忙しい時に、こうして私のために貴重な本を貸してくださるだけでなく、私が読むところには付箋をつけておいてくださいました。「逢うは別れの初めなり」といわれますが、私は「別れは逢うの初めなり」と考え、再びNさんと逢えることを信じています。

# by eastwatery | 2007-03-31 01:09  

「ニュースレター11号」発行(3月29日)

生涯学習をテーマとして活動している「ラーニングネットひろしま」の活動報告書代わりとして発行している「ニュースレター11号」をやっと印刷しました。全部で12ページ、500部です。

本当は12月末日として発行する予定だったのですが、内容の作成から編集まで、私一人でかかわってきたので、時間がかかりました。昨秋から3月20日くらいまで特別多忙でしたが、少しずつ文章を書き、カットを入れて完成に近づけていく作業は楽しいものでした。

1年間の活動報告ですから、挨拶から始まり、「大人のまなび」のガイダンス、社会人学生を希望する人たちの学習相談内容と結果、大学合格者の合格までのプロセスなどなど。そして、もう一つは、「社会人学生ネットワークきらめき」の例会と学習内容の概要、講座の企画・講演の内容と結果報告、「日本女性会議2007ひろしま」のレポート、そして最後に手作り料理による交流会と学習相談・支援のお知らせなど盛りだくさんです。

振り返ってみれば、1年間の長さを感じます。このニュースレターは広島市内の社会教育施設や広島市まちづくり市民交流プラザの社会人学生のコーナーにおいていただいています。今年度の合格者の一人は、ここのラックで「ニュースレター10号」を見て、学習相談にこられ、入学試験までの、僅か1ヶ月間に進学決定・受験勉強と仕事をしながら忙しい日々を重ね、見事に合格されました。

明日から他の活動と仕事をしながら袋詰めをし、発送作業が始まります。それほど多くの人ではありませんが、私たちの活動に理解を示していただき、寄付をしてくださる人がいらっしゃるので、その方たちに読んでいただけるのは嬉しいことです。広島市は、社会教育・生涯学習が盛んで市内に70館の公民館があり、活発な活動をしています。人々も「大人のまなび」に対しては熱心で、市民のための活動場所広島市まちづくり市民交流広場では、あらゆ世代の人たちがボランティア活動や学習活動を行っています。私たちも、今日はこの施設にある印刷室で、ニュースレターを印刷しました。

平素から、私たちの活動に関心を持ち、支援してくださっている皆さんのお手元に、春の風と共に白地に青のインクで印刷した爽やかな「ニュースレター11号」が、届くのも、後もう少しです。
アーー、やっと気になっていたことが一つ終了しそうです。今日はお疲れモードなので、これで失礼します。

# by eastwatery | 2007-03-30 00:23  

我が家の早春の庭(3月29日)

あと数日で4月になります。我が家の庭にも早春にしては暖かな春の陽光が降り注いでいます。暖冬の影響か、予想以上に様々な花の蕾が開き始めました。

一番先に花開いたのは、濃いエンジ色と白のクリスマスローズ、白と濃いピンクのアネモネでした。それ以前に、小さな苗を買って植えた3鉢の桜草は、寒い冬でも着実に花をつけ、今では満開になっています。もちろんヴィオラ、パンジーは現代のマジックにより冬中、花をつけていましたが、今では鉢一杯にそれぞれが精一杯咲き誇っています。そうそう、薄い黄色のチューリップも昨日花開きました。

一番元気を誇っているのは、小さなオレンジ色の花、カレンジュラです。庭のあちこちに種が飛び、それを植え直してパンジーなどと一緒に植えていたら、あまりにもカレンジュラが繁りすぎたので、先日パンジーを別の場所に植え直しました。こうして、一つひとつ花を見たり世話をしていたら、子育てとよく似ていると思いました。逞しいのあり、自己主張が強いのあり、ひっそりと咲くものあり、繊細なものあり・・・などなど、面白いですね。
そして、ちょっと油断していると自由になりすぎるものもあり、おかしいくらい子育てに似ています。同じところは、どちらも愛情をもって育てなければ、結果は良くないということです。

そういえば、昨秋100円均一のお店で2袋100円のの種を買ってパンジーとヴィオラを蒔いたのが、大きな花をつけました。寒い冬にも負けず順調に育って、大きな株に育ちましたが、あまりにも花が大きく、驚いています。ブログ仲間のメリーさんは、自宅の庭に植える花々の多くを、種から育てていらっしゃいますが、メリーさんこそ、本当に花好きな人だと思います。私も、少しずつ彼女を見習おうと思っています。メリー師匠さん、よろしくご指導をお願いしますね。

これから、たくさん花が咲くと思われるのは、お祭り金魚、様々な色のチューリップ、忘れな草、姫キンギョソウ、そして桃の木です。それらのどれも、花が咲くまでには、もう少しかかりそうですが、あと1週間もすれば我が家の庭を、いっそう賑やかにしてくれることでしょう。お祭り金魚は、夫が買ってきたもので、初めて育てたのですが、「お祭り」というくらいですから、ふんだんに花がついています。

もうひとつ嬉しいのは、8株のペチニュアが冬越しをしてくれ、そのうちの2鉢は冬中、大きなピンクの花を咲かせていましたし、今もますます元気になって花をたくさん咲かせています。いかに今年が暖冬だったかわかります。

ハーブの類は、まだまだこれから葉を出していく感じで、今しばらく見守っていようと思っています。花たちのおかげで徐々に気分が晴れています。自然の力はすごいですね

# by eastwatery | 2007-03-28 23:46  

二つの美術館巡り(3月27日)

今朝は5時起きをし、貸し切りバスで島根県の二つの美術館へ行ってきました。一つは日本でも伝統的な日本庭園を眺めつつ、横山大観の日本画を中心として展示してある安来市の足立美術館、そして、もう一つは、20世紀の装飾美術の名作であるルイス・C・ティファニー美術館です。

まず、足立美術館では、遠くにある山々を借景として設計された伝統的日本庭園をゆっくり眺めた後に日本画を中心として鑑賞しました。枯山水庭をはじめ、13,000坪におよぶ6つの庭園は、四季折々にさまざまな表情を醸出すということです。スケールの大きな、しかもしっかりと手入れの行き届いた庭に対すると、多くの見学者も一同に寡黙になっていました。美術館に入った直ぐのところには、螺鈿を施したすばらしい家具が飾られ、その後日本で有名な武井武雄、林義雄などの童画がずらりと展示され、子どものあどけなさや動物と子どものふれあいなど、思わず微笑んでしまうような絵ばかりでした。

その後は、まず3月1日(木)より開催している春季特別展「榊原紫峰《生誕120年》―知られざる花鳥画家の全貌―」を観ました。榊原紫峰は、自然に深い愛情を持ち、生涯花鳥画を描き続けました。足立美術館での紫峰コレクションは約90点におよび、その数は日本一を誇っているとのこと。今回は、紫峰の生誕120年を記念して、初公開作品を含む約40点が展示されていました。印象に残っているのは、機や花を描いても必ず、すずめや鷺などの鳥やリスなど、そして、自宅で飼っている山羊や猫なども本当に愛情深く描かれていることでした。私が今まで観た絵の中で、これほど生き物に愛情をもっているものはなく、動物好きの私には心に触れるものがありました。

その後、横山大観の富士を描いたもの数点を含めた多くの絵を観ました。この美術館では、横山大観の作品の所蔵が多く、常設展があるので今回3回目の彼の作品を鑑賞しました。特に白黒で描かれた日本画は、色がついた絵よりもはるかに奥深く感じられ、迫力もあるように思いました。大観の絵を見て始めて、上述の榊原紫峰の絵もいいが、色の派手さや落ち着きのなさなど大観と較べたら、これほど違うのかと思いました。さすが大観です。

その後、アールヌーボーのステンドグラスや装飾品が所蔵されているルイス・C・ティファニー美術館を訪れました。実は、この美術館は、松江市との協働事業だったのですが、もう一方の会社とのいざこざがあり、3月31日で閉館することになっています。前々からこの美術館とイングリッシュガーデンの素晴らしさを人づてに聞いていたので、急いで申し込み行ったということです。噂どおり、ガラスで作られたアールヌーボーの大きさも色も模様もさまざなランプ、置物など多数ありました。また、はめ込みの大きなステンドグラスなどは、特にブルーが美しく、手の込んだものでした。これらのものは、アメリカ、特にニューヨークの大富豪たちがお金に明かせて注文し作らせたものです。また、その後に展示されている、どれだけのお金が投じられているか分からないほどの宝飾品の数々、あまりにも生活とかけ離れている品々に、正直うんざりしてしまい、すっかり興味をなくしてしまいました。

自分でも「美しいものを、なぜ美しいと思わないのか?」と不思議に思ったのですが、夫も私と全く同じ感じを抱いたようでした。以前、パリへ行ったときベルサイユ宮殿を見たとき、そのきらびやかさの裏には、貧しい国民からお金を搾り取って、これほどゴージャスな城を建てたことを知り、「虚栄と権力を表すためにつくられた建築物」にうんざりしたことと同じ感覚だったことを思い出しました。

どうも私はへそ曲がりなのか、リアリストすぎるのか、ルイス・C・ティファニーのものには魅力を感じませんでした。そういえば、足立美術館では、所蔵の北大路魯山人、河井寛次郎の名品の中から、それぞれ約50点を楽しみました。魯山人展示室では、魯山人の箱書写真を作品に添えています。箱書とは作品を収納する箱に作品名および作家名を記したものです。この美術館が所蔵する魯山人作品のほとんどは作者自らが記入したもの。魯山人はもともと書家として芸術家の道を出発しており、その文字は実に味わい深いものがあります。しかも、彼は料理した食べ物が魅力的に映えるような作品をつくっていると、いうところが彼らしいと思いました。

# by eastwatery | 2007-03-28 00:08