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「生きててええやろか」(1月13日)

哲学者であり、大阪大学学長の鷲田清一さんが「老いの哲学」という一文で、「老いを問うということは、肉体的、精神的にある意味で破綻する、消えていくプロセス」と言っておられます。そういう状態になった人にそれでも、「あなたは居るほうがいい」といいきれるか、どうか・・・・。しかもこのことは、近代社会が一番大切にしてきた福祉という理念の根底にある問いだ、といっておられます。

そこで、彼は「老人問題」を人が語るときに世話をする側からばっかり考えるからか問題であるのであって、本人から見れば「どう生きるか」という課題であるのだと述べておられます。

昔の人は「老い」にものすごい寛容で「ほけたらダメ」じゃなくて「半分あの世にいってはるから」とむしろそこに神性を見たとのこと。そこには「われわれ」の理解を超えたものも社会の一部として包含するという、それが成熟した文化ではないか、と鷲田さんは投げかけています。

上述の文章は鷲田さんが「老いの哲学」の中の一部を書いていますが、これからますます高齢社会になっていく日本においては、鷲田さんの「問いかけ」は、人としてみんなが考えていかなければいけないことだと思います。

私の母は、92歳で亡くなりましたが、亡くなる数年前から認知症状が徐々に進みました。初期の頃は、まだ自分がそういう状態になりつつあることに対する自覚があって、不機嫌になることが多かったのですが、完全に「半分はあの世にいった」感じになったときには、もうストレスも何もないようでした。私に対するときにも「あなたは、お嫁さんですか、娘ですか?」と何のてらいもなく尋ねていました。「娘ですよ」というと「ああ、そう。私はいつもみんなに良くしていただいて幸せ者です」とニコニコ顔で言うのです。自分が、そういう状態になってしまったことは、もう苦にはならないようでした。

その頃、私は「認知症になるということ」は、神様からの贈り物ではないかと思いました。全てのいやなことは忘れ、母の場合は、ただただ感謝の思いだけが残っているようでした。だから、過去のことも皆忘れ、自分が尋ねたことも30秒すれば忘れて、10回くらいは、同じ質問をしますが、さすが10回したら安心するようでした。誰かが、「認知症になったら絶対にその人を否定してはいけない」と言っていました。認知症があっても人間としてのプライドは最後まで残っているからだということです。

それは先述で鷲田さんが行っておられる<「われわれ」の理解を超えたものも社会の一部として包含するというそれが成熟した文化>と私たちが思い、老いた「先人」に接していくことが大切だと思いました。

by eastwatery | 2008-01-13 16:33  

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