気になること、恐ろしいこと(1月31日)

 少年たち4人が高いビル(30メートル?)の屋上からコンクリート片などが混じった土嚢2袋を車や人が多く行き来する駅前に故意に落下させたという。運良く、歩行者に当たるという事はなかったが、タクシーの前後に落ちたのとこと。初めに車の後部に落ち、急停車後前部に落ちてきたということである。当時、タクシーには乗客もいたが、運転手ともども怪我もなく、運が良かったとしかいいようがない。

 なぜ、このようなことが起こるのか、できるのか? 私には考えられない。2回に分けて、しかも停止した車の前部に落したという事は、明らかに車をつぶし人を傷つけることを狙っていたのではないか。それほどの物を高いところから落下させれば、どういうことが起こるかと考える事はないのか。そういうイマジネーションはないのか?

 彼らたちは、死傷者が出ることを考えないのか? それともそういうことより、この事件がテレビや新聞で騒がれることで自分たちを世に知らしめたい、と思ったのか。それとも
人が傷つくなどして、パトカーや救急車が駆けつけるのを見て楽しむ「愉快犯」なのか。
それとも・・・・・4人という人数から集団心理で「みんなで渡れば怖くない」を地でいったのか?いろいろ考えてみても、私には理解できない。

 「命」を、「生きること、死ぬこと」をどう思っているのか? こういうことに対して、家庭教育や学校教育は、どうすればいいのか?教育の効果は、すぐには現れないが、私がこの事件から考えた事、以前から考えている事は「生と死の教育」を幼いときからしていくことが必要だということ。

 我が家の一人息子は私が41歳、夫が48歳の時にやっと授かったので、彼は誕生以来、何度多くの人の葬式に参列し、遺体を焼いた後の骨拾いをしてきたことか。その経験を積み重ねる事により「死ぬ」ということが、どういうことか、「死ぬ事」によってどれだけの人たちがどんなに悲しむか、彼は肌身で感じてきている。と同時に、彼自身、自分を愛してくれた人との別れの辛さ、心の痛みも多く味わってきた。

 こうした体験から、彼は「生命の重み」や「生きることのすばらしさ」を知ると共に、その生命は自分一人のものではなく、多くの人やものに支えられているということが分かってきたのだろうと思う。それが、中学2年のとき、登校時の交通事故死した一匹の狸を見過ごすことができず、茂みに隠しておいて下校時に穴を堀り、葬る行為につながったのだと思う。このような子どもは、まだまだたくさんいるだろう。しかし、もっともっとみんなが「生命の大切さ」を知ることをしなければいけないと思う。

 生まれて育ち行く時間の流れの中で、多くの生物の命に触れ、生や死に出会ってきたからこそ、どんな命も支え合っているのだということを自然に学べるようなカリキュラムを学校教育の中で行なう事はできないだろうか?また、家庭においても小さな生物でもいいから飼い、愛する喜びとともに「生と死」を体験する生活ができないだろうか?(ちなみに、我が家の息子は小さいときから犬はもちろんの事、いろいろなものを飼ってきました)。

全て子どもが世話を見る事はできないから、親も助けてやる事が必要だろう。親は、忙しいかも知れない。その面倒を子どもと共に見ることが、将来親が年老いて助けを必要としているときに、自然に親を援助できる子どもに育つのではないだろうか?(それが目的ではありません。あくまで、「生と死」を考える事につながるということです)。
 
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by eastwaterY | 2006-01-31 20:58  

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