父のこと、母のこと(1月10日)

 私には、もう既に両親はいません。父は、昭和20年8月6日、広島市の中心部にいて
被爆し、未だに遺骨は分かりません。
 
 私は、そのとき3歳。広島市郊外に疎開していたので、命拾いをしました。私にとって父との思い出は、ほとんどありません。ただ一つ、(我が家は3階立ての家だったのですが)空襲のとき、父が螺旋階段を私を片手で抱えて走って降り、防空壕で何か食べたことを憶えています。その光景は階段を抱えられて降りる下に向けての階段が見えているだけで、父の顔を見ているわけではありません。しかし、私には「私を抱えて防空壕に連れて行ってくれたのは、お父さんだ」という理由のない確信があるのです。

 父の顔は、写真を見て知っているだけです。しかし、父の被爆後、女手一つで4人の子どもを育ててくれた母は、夕食の団欒をとても大事にしてくれました。「お父ちゃんは、こういう人だった」、
「お父ちゃんは、いつもあなたたちのことを見とってよ」と言いながら、父にまつわる話をいろいろしてくれました。

 私が結婚するとき、母から父が子どもが生まれる度に、その子のために日本画を描き、表装していたという絵の話を聞きました。そして、「あなたにはこの絵を描いてくださった」といって、
平安時代のような、おすべらかしの髪型の色白の優しい面影の女性の絵を嫁入り道具の中に入れてくれました。

 私が成人してからも、母はよく父の話をしてくれました。「お父さんと一緒に暮らしたのは、10年だったけど、私はその10年で一生分愛してもらった」とか「4人の子どもを早く寝かして二人で、よくいろいろな話を夜遅くまでしていた。空が明るくなったから寝ようということもあった」とか。

 そして、父は、短歌を詠み、絵を描き、芝居をし、オルガンを弾いていた事。夕食後、父がオルガンを弾いて、みんなで歌を歌ったたりもしたとか。それらの話は、いかに父が家族を大事にし、愛していたかということがよく分かります。

 今、父が私のために描いてくれた絵を、時々我が家の床の間に飾っています。父の顔を実際にみた記憶はなくても、この絵を見るたびに父の深い愛情を感じています。また、いつも父の
話を母から聞いて育ったから、ひねくれる事もなく成長できたのだと両親に感謝しています。


 
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by eastwaterY | 2006-01-10 23:34  

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