人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(3)

昨年、8月6日から1週間後位の時仕事から帰宅するため、徒歩で広島市役所の前を歩いていて、市役所の入り口近くで、木がこんもりと茂っている一角に慰霊碑があることに気づきました。これまで、何度も通った道なのに、そこに慰霊碑があることには気づいていませんでした。よく観ると、この慰霊碑は市役所に勤務中、被爆死した人たちを祀っている慰霊碑でした。そこには、塔婆と、まだ最近活けられたらしい花が花挿しにたくさん活けられていました。また、その横に、大きなガラスのコップにたっぷりときれいな水が供えられていました。私は、そのコップを見たとき、はっとしました。8月6日の原爆記念日の後、多分、その日にお参りできなかった人が,遅ればせながら、花と水を供えたのでしょう。

「なみなみと注がれたコップの水」には深く,哀しい意味があるのです。多数の被爆死した人たちがあちこちで死に際に「ミズ、ミズ、ミズをください」といって事切れたという話は、広島ではよく語られています。原爆投下後、「原爆にあった人に水をあげたら、早く死ぬ」という流言蜚語が流されたので、死にかけた人が「頼むから水をください」といっても、その人に水をあげなかった、自分が歩くのが精一杯で水をあげる余裕がなかった、などということがありました。 そのようなことで、被爆した人に水をあげられなかった人が生き延びた後、特に原爆の日には「どうして自分はあの人に水をあげなかったのだろう」と自分自身を責める人が多いということです。これはとても辛いことです。

私の父も未だに遺骨も分かりませんが、息子が小学生のときに前述の話をして以来、息子は大学生になって家を出るまでは「おじいちゃんにタップリの水をあげる」といって自分の役割として、毎日水を供えていました。一般的には仏教では、お仏飯とお茶を供えるのですが、我が家はお仏飯とお水なのです。父がこの水を飲んで、カラカラであった喉を潤しているだろうか、時々思う時があります。そう思う日々を送っているせいか、市役所の慰霊碑に供えてある「なみなみと注がれたコップの水」を目にしたときには、涙が出そうになりました。私と同じような思いを持った人がこの水を供えたのだと思うと、いまさらながら、どれだけ多くの人がそのような思いをもって生きているのだろうか、と思いました。今年は特に暑かったので、氷を入れてお仏前に備えています。

ある時、テレビで「はだしのゲン」を最後まで観ました。それ以前は、このドラマをどうしても観ることが出来なかったのです。理由は、このドラマを見ていると、私たち家族の体験と同様のことが描かれており、辛くなってしまうからでした。
しかし、あるシーンでは、ゲン一家が原爆のために父親やきょうだいだけでなく、何もかも失って友人一家のところにしばらく居候をする立場になったとき、その家の姑がアレコレと苦情をいい、いじめる場面がありました。私の家族も父が被爆死する前から、遠類を頼って広島市中心街の自宅から郊外に引越ししました。私は当時2~3歳だったので、よく憶えていませんが、後から姉や母から聴いたところよると、その遠類から相当のイジメを受けたらしいのです。何もかも不自由で、これからの日本はどうなっていくのか不安もあって、みんなの心がいら立っていたのだと思います。

しかし、父が被爆死後、また別の遠類が快く私たち家族を快く受け入れてくれ、倉庫を私たちが住むようにしてくださったので、1年くらいそこにいました。その間は父が残してくれた(疎開するときに持っていった)骨董品や母の着物を売ったり、母が他所の農家の手伝いをして、少しばかりお米や野菜をいただいて生活していました。だから、毎日の食事は「だいこんご飯」が主で、ご飯といえるほどのものではなくびしょびしょのご飯でした。こういう状態は長い間続きました。おかずといえば、こんにゃくを茹で、味噌をつけて食べるだけ、というような食事でしたが、栄養失調にもならず、元気だったのは、今でも不思議です。
 

by eastwatery | 2010-08-30 08:28  

<< 原爆投下後65年目の広島」で考... 「原爆投下後65年目の広島」で... >>