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イタリアへの旅(その1)

来年、私達は金婚式(結婚50年目)を迎えること、そして、私の古希(70歳)のお祝いを兼ねて、4月23日~5月1日まで、イタリアへの旅を私の弟夫婦と共に楽しんできました(ちなみに、旅行企画・実施は阪急交通社「感動のイタリアハイライト9日間」)。

1日目:
4月23日4時半に起き、広島空港から9:20発の中国東方航空で上海まで1時間40分の飛行時間、ここではトランジットで上海発12:30発でローマへ向かいました。広島からのトータルの時間はせま~椅子に座って14時間10分の飛行時間でした(機内食は昼食・夕食の2回。日本食(?)と中華料理のメニューから選びました)。19:00前にローマ着陸後は、迎えの専用バスでホテルへ。到着後、36人のツアー客は皆ぐったりとして休むだけでした。

2日目:
 バイキングの朝食後、7:30ホテルを出てローマテルミニ駅へ行き、9:15分発のユーロスター・イタリア(2等車)に乗ってミラノへ出発。この電車には、食堂車もあり、車内販売もありました。車内販売では主にスナック、コーヒー、飲料水(水道水は×)を含むソフトドリンクなどに加えて、イタリア名物のワインなども販売していました。特に印象的だったのは、売り子の中年男性が片言の日本語を上手にウィットをきかせながら操り、ニコニコと笑顔を振りまくこと、それに連られて、もう一人の若い女性がヒマワリのように明るい笑顔を振りまいていた事でした。
ここでは、ちょっとした事件がありました。いかにもイタリアらしい「スリ」の出現でした。私達のツアー客の一人は電車に乗るなり、カードを盗まれましたとのこと(カードNOなどを控えていて、30分後にはカード使用不可能となる手続きが済んだとのこと)、次の人は「荷物を上の荷物置き場に両手で置くように」とジェスチャーで言われたこと、彼女は怪しんでそうしなかったので大丈夫。次の男性は、腰につけていたウェストポーチを探られたこと。その次が私がそのスリに出会ったのですが、どうも行動があやしいので、英語でいろいろ質問し、最後に「チケットをもっているの?」と尋ねた途端二人の若い女性スリは、すごい勢いで列車から出ていきました。イタリアの「スリ」は有名ですが、イタリアでの旅の1日目にスリに会うとは思いもしなことでした。 それ以後はみんなは肩越しに斜めにバッグを持ち、慎重に行動したので、スリ騒動は問題なくなりました。。

次は、3時間のミラノ観光。ミラノのシンボルのドゥオーモ(大聖堂)は1386年から500年を費やして1813年に完成した建物です。天を突き刺すように伸びた135本の小さな尖塔と天井を飾るステンドクラスは、ゴシックの一大傑作と讃えられているいるそうですが、まさに、その正面に立つと、豪華さととてつもない大きさに圧倒されました。内部には巨大なパイプオルガンとキリストの布教活動が描かれた数え切れないほどのステンドグラスがありました。ステンドグラスは、製作された時代によって、絵の描き方や色などに特徴があり、その美しさにただただ、見とれていました。

次には、ヴィットリオ・エナムエーレ2世アーケードでのショッピング街を散策しましたが、多くのブランド店とカフェなどが軒を連ねていました。(私達は、名物のジェラードを賞味しました)。このアーケードは、イタリア再統一を祈念して、1865年から12年かけて造られたとのこと。市民はこのアーケードには誇りをもって「ミラノの応接間」と呼んでいるとのことでした。ミラノには、かの有名なベアとリーチェが寄進したサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会があった場所に建てられた「オペラの殿堂」スカラ座を外側からの見物。殿堂という名前とは裏腹に、とても地味な外観でしたが、掲示板には次回のオペラコンサートの広報がしてありました。
 昼食にはミラノ風カツレツ(フライパンにバターをひいて焼く料理。ミラノ風は、黄金色を示し、焼き色が美しいものでしたが、私にとっては油っこくて少ししか食べられませんでした)

3日目:
 8:15専用車のバスでベネチアへ出発。「イカ墨のスパゲッティー」の昼食後、世界遺産ベネチア観光(1時間半)として、サンマルコ大聖堂を見学。この大聖堂は、828年、アレキサンドリアから運ばれた聖マルコの遺骸を安置する場所である礼拝堂として建築されました。976年に焼失後は、ベネチア共和国の威信を示すため1063年から400年がかりで大聖堂に建て替えたもので、数少ないギリシャ聖堂としてモザイク模様が荘厳でした。
そして・・・ベネチアで楽しみにしていたゴンドラへの乗船でした。近年、ベネチアは少しずつ海面が上がりつつあり、特に大潮の時には、家の中に水が入ってくる状況があるので、いつまで水上都市のベネチアでの旅情を満喫できるかどうか定かではありません。

 ゴンドラのルートは決まっておらず、行先は、水かさや天候で漕ぎ手が決めるとのこと。サンマルコ広場やリアルト橋(1591年に建造された大理石の太鼓橋)などをくぐりながら、周囲の古い建物などを眺めつつ、その一方で漕ぎ手の男性の「オーソレミヨ」などの歌を聴きながら風情のあるゴンドラ紀行を楽しみました。一つの船では6人が定員で、船の飾り方は漕ぎ手の趣味によるものか、いろいろな彫刻がされ、椅子などもなかなか凝ったものでした。
3日目のランチは、入り組んだ小路を何度も曲がりくねりながら行ったひなびたレストランで
の「イカ墨スパゲティー」で、みんな食べ終わったら、歯が真っ黒、お互いに口の周りにイカ墨をつけた相手を見て大笑いでした。味は、広島で食べても同じかな?と思う程度でした。

長くなりました。イタリアへの旅(1)はこれで終わりとします。読んでいただいてありがとうございます。

# by eastwatery | 2011-05-27 17:02  

長い間、ご無沙汰をしていました

約3カ月ブログをお休みしていました。こんなにお休みしたのは始めてです。
理由は、まず、広島では市長選挙があり、ボランティアとして関わっていた事、その後からは、小学校3年生のクラス会「古希の会」の幹事として文集づくりをしていた事、
そして・・・・・その後、4月23日~5月1日までイタリアへ旅行をした事、その後もいろいろあって、やっと今日ブログを書く余裕と時間ができました。

前述のことは、おいおいに書いていきたいと思います。まずは市長選挙について。選挙については、1年半くらいは、いろいろ書いていけないとのことなので、詳しくは書けませんが、私はボランティアの人たちのコーディネーターなどを主として活動しました。

広島市は元秋葉市長が2期(8年間)にわたって市長を務めてきましたが、3期目を見送られたことにより6人の立候補者により市長選挙がおこなわれました。

投票は、4月10日でした。私が後援したのは元広島副市長の女性でした。年齢は45歳、
市長候補としては若くても、知見・判断力・行動力・経験などは素晴らしく、そういう経歴であっても謙虚で、まっすぐな生き方をしている人でした。

事前に、8人の友人と初対面の彼女と会って、いろいろ話し合う中で「この人に広島市長になって頂きたい」という思いが強くなりました。3月から1カ月余り、時間が取れない時を除いて、私の生活は、ほとんど選挙の応援一色となり、毎日睡眠時間が5時間くらいで、4月10日まで活動してきました。

4月10日の選挙結果は、次点でした。最終的には6人の候補者の中で、当選者の松井現市長と豊田麻子さんの一騎打ちとなりました。保守的な広島を変えたいという思いで、活動してきましたが、残念な結果となりました。現在は、選挙につてい詳しく書くことが出来ないので、ここまでです。

しかし、私個人としては、人生の中で貴重な体験をした日々でした。夫が「応援をするなら徹底的にやること」と言って後方支援をしてくれ、人手の要る時に手伝ってくれました。
ボランティアのまとめ役は、私が非力で思うように後援することができなかったのは、本当に申し訳ない気持ちです。ただ、一つの目的・目標に向かって生活した日々は充実していました。

その上、今までに出会った事のない素晴らしい人に出会い、その人のために無私の気持ちで応援できたことは、人生の1ページに残る思い出になりました。

# by eastwatery | 2011-05-13 02:32  

思いは伝わる

 このところ人間以外からでも「思いは伝わる」という体験を受けており、感動しています。
まず、初めに野ボタンの花。この花は、本来なら秋口に咲くのですが、昨秋には蕾をつけただけで咲くところまでは行きませんでした。4年くらい前、園芸店で小さな野ボタンの苗を見つけ買い求めました。この苗はニュージーランドでは、大きな灌木となって品の良い紫の花をつけており、その木が、そこ、かしこにある情景が忘れられず、買い求めたものでした。

2年間は、秋になると次々と花をつけていましたが、昨年は、1つの花をつけただけで、冬の間はずっと屋内に置いて育てていました。今年も秋にも、そのような感じでしたが、今年の私の思いは違っていました。今年は、どうしても多数ついている蕾は絶対に咲かせてもらいたい、咲かせたい、という思いが強く、寒くなってからは、屋内に入れても、天気が良く暖かな日の日中は玄関わきの日当たりのよい所に出し、午後3時~4時ころには屋内に入れるという繰り返しを毎日飽きることなく繰り返しました。 そうしたら、なんと健気にも小さい花ながら、高貴な紫色の花をどんどん咲かせ始め、これからも咲くであろう蕾が一杯ついています。「頑張って咲いてね」「良く頑張って咲いたね、嬉しいよ」と話しかけながら育てた甲斐がありました。

次は、ジンビジュムという蘭の一種です。これは、28歳の息子が生まれた時、夫の会社の方がお祝いとして下さったものです。28年の間には紆余曲折ありましたが、今では3鉢に株分けをして、その株一つにピンクの花1本をつけています。頂いて5年間くらいは、お正月の活け花用になる時期に5本位咲いていましたが、最近はやっと1本。それでもよくもまあ、28年間も生きてくれ、律義にお花をつけてくれるこの蘭には、大感謝をしているし、身内のような気がします。

そして、最後の「思いが伝わる」のは、私たちのウォーキングコースの1軒の家に飼われている柴犬の「ちくわちゃん」です。我が家は結婚以来40年近く、合わせて6匹の犬と家族として共に生きてきましたが、6年前に亡くなったハッピーちゃんを最後として、これ以後飼うことはあきらめました。というのは犬の寿命を15年と考えると私たち夫婦が最後まで世話をしてやることは無理だと思ったからです。
だから、それ以後は近所の犬を可愛がらせてもらうことにとどめていました。それだけでなく、ウォーキングコースを始めて「ちくわちゃん」に会い、親しくなりたいと思うようになりました。ところが、この犬は、人になかなかなつかない事で有名な犬でした。でも、名前を呼べば、ちょっと眼だけは合わせてくれるので、通るたびに座っていようと、寝転んでいようと「ちくわちゃん」と呼び掛け始めて6カ月たったころから、私たちの足音が解るのか、座って待ってくれるようになりました。

そして・・・・ついに「こっちへおいで、ナデナデしよう」と言うと、寄ってくるようになりました。そして、「もう行くからね。バイバイ」と言うとすり寄ってきて、「もっと、もっと」とねだるようにもなりました。

ここ1週間、天気の良い日が続いたので、「ちくわちゃん」は寝そべっている事がよくありました。そういう日は、私を見つけると、お腹を天に向けて大股を広げてナデナデをしてもらうのを待っています。 これは、もう完全に私に心許している証拠です。ここまで来るのに6カ月かかりました。 でも「ちくわちゃん」のお蔭で、どれだけ私たちのウオーーキングが楽しくなったか、実際に言葉を交わす事ができなくても、お互いの思いが通じることが、こんなに嬉しいものなのかと喜び、ちくわちゃんに大感謝です(ちなみに、「ちくわちゃん」は男性が、苦手なのか、夫とは目を合わせても、まだナデナデまでには、もう少し時間がかかりそうです)。

# by eastwatery | 2011-02-24 00:47  

映画「太平洋の軌跡~フォックスと呼ばれた男」

1週間前に、今話題になっている映画「太平洋の軌跡~フォックスと呼ばれた男」を夫とともに観てきました。私は終戦の時に3歳ですから、第二次世界大戦のことは、疎開した以外はほとんど知らないのですが、夫は中学1年の時に終戦を迎えています。そういう年齢ですから、当時、夫は中学校を卒業後は「お国のために兵隊になる」と心に誓っていたといいます。終戦の時の昭和天皇の終戦を報じる放送には相当のショックを受けたそうです。そういうことから、この映画は絶対に見逃せないと思っていました。

あらすじとしては・・・・・

1944年、サイパン島を統治していた日本軍でしたが、戦況の悪化により、守備隊の幹部たちは特攻命令を出すだけだして自決してしまいました。そのために、民間人も次々と自決をしてしまうという悲惨さ。しかし、生き残った大場隊(47名)は、隊の皆とサイパンの森のや林の中に逃げながら、孤独な戦いを続けていました。隊の中には自決を考える人たちもいましたが、大場大尉は「最後まで生きることを考えるのだ、生きて日本に帰ろう!」と何度も全員に語りかけていました。時には、アメリカ兵と戦わないために知恵を出して森の中に罠を張るなどして逃げているうちに、生き残りの民間人の団体数十人と出会い、彼らをも守りながら戦う事になりました。民間人の中には、攻撃的な性格の一団もありました。彼らは「米軍と戦い、日本が勝利するのだ」という思いで、すぐに銃を打つなど、大場大尉の思いをなかなか理解できない人たちでした。

その一方で、アメリカ軍は、絶望的な状況でも投降しない日本軍にいら立ちを覚え、殲滅を試みますが、先述のような大場大尉の巧みな戦略に翻弄されることになりました。そうはいっても、日本側は、日に日に食料や弾丸もなくなり、生きていくのも難しい状況になった頃でした。
「日本は降伏したので投降するように」というビラがヘリコプターによって避難していた洞窟の辺りにばらまかれました。このビラを信じるか、信じないか、「このビラをどう判断するか」大尉としては大きな決断を迫られます。いろいろな意見が出る中、大尉は、まず「全員が生きて日本に帰る」という思いを変えることなく、ビラを信じアメリカが投降した日本人を収容している収容所に行き、アメリカ軍のサイパンを支配しているトップの考えを伝える収容所長と話し合いました。

結果的には投降し大尉の軍だけでなく民間人も含めて自決した軍人一人を除いて無事日本に帰ることができました。ここまでに至るプロセスは涙なしでは見られない事が多くありました。アメリカ人が大場大尉を「フォックス」としたののは「狐のように賢い」という意味で、大尉に敬意を表してそう呼んでいたということでした。

大場大尉は最後まで日本人のプライドを捨てることなく、アメリカに対しても礼を尽くし、人々の命を守り抜きました。その陰には「人の命がいかに大事か、これを守り抜く」とする一貫した彼の哲学と人類愛があったのです。

この物語は、原作は、ドン・ジョーンズ著タッポーチョ 『敵ながら天晴』 大場隊の勇戦512日(81年刊行、現在は絶版)。著者がアメリカ人だということには、驚きました。この方が、この本を出さなければ、大場大尉の勇気ある行動は、日本では知られなかったであろうと思いました。そういう意味でも、原作者のドン・ジョーンズ氏に感謝の念をもつと共に彼自身も大場大尉に対して尊敬の念をもっていたことが伺われます。

この映画は、決して悲劇的な話ではないし、「お涙頂戴」な演出もなく、お国のために死ぬことに対する美談としてもいません。この映画で私が感じたことは、どんな団体(政治、企業、活動)においても、いかにトップの人格と判断が重要かということです。

さらに、「戦争について」、「日本の歴史教育について」は戦後の学校教育の中では近代史が詳しく教えられていません。 そういう意味からも世代を問わず、一人でも多くの日本人にこの映画を見て欲しいし、見るべきだと思っています。そこから「戦争することの愚かさ」と「いかに平和であることが大切か」、そして「第二次大戦で戦死したり戦った人たち、ヒロシマ・ナガサキで被爆死した人たちの犠牲の上にある自分の命」を考えてほしいと思いました。

# by eastwatery | 2011-02-23 22:16  

人の生き死にに人為ははたらかない

朝日新聞の「悩みのるつぼ」に、母親の立場から「子のいない長男夫婦がふびんで」という相談がありました。その内容は、保育士をしている長男の妻は、子どもが人一倍好きなので、自分たちの赤ちゃんをほしいと高度な体外受精を6回受けている。が、その結果が出ていない状況に対して、この世の不条理を感じている」というようなものでした。

この相談に対して、回答者の社会学者の上野千鶴子さんは「ご長男に子どもがいないことを気に病んでいるのはあなた自身では? もしかして、子どものいない女は、女として一人前ではないとおもっていませんか?」と疑問を呈しています。そして、最後に上野さんは「昔も今も子は授かりもの。
その気になったからといって計画通りにできるわけではありません。人の生き死にに人為が働かないことに、もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」と結んでおられました。

この結論を読んで「さすが、上野千鶴子さん!」とすっきりしました。上野千鶴子さんは社会学者であり、専攻は家族社会学、ジェンダー論、女性学。そして、63歳のこれまで事実婚はあったようですが、独身を通しておられます。これまでの日本では、独身をとおす、子どもを育てていない、という理由で上野さん自身、理不尽なことを人々からいわれたことがあると想像できます。そういうことの繰り返しの中から先の「人の生き死にに人為がはたらかないことに、もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」という考え方が出たのでしょう。上野さんが、述べたかったことは、この相談内容だけに限らず日本の人々の『一般の人々の常識』から外れた考え方や生き方に対してではないかと、私は思います。たとえば、外国人、在日外国人、性同一障害の人々や未婚の人、そして既婚であっても子どものいない人などに対しては、遠慮なく相手が傷つくような言葉を発します。人一人ひとりには、それぞれの生き方があり、人と同じように生きようとしても各人の事情により、そのように出来ないこともあるのです。上野さんが「もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」と書いておられるのは、上述のことではないでしょうか?私は謙虚であることだけでなく、もう一つ「思いやり」をつけ加えることだとと思うのです。「思いやる」=(イメージをする)でもいいと思います。

私自身についても、20年間子どもに恵まれなかったことに対して人々からは「子どももいない人には分からない、どちらが悪いのかしらないが自分たちは結婚後すぐに子どもができた、子どもがいない女性は一人前ではない」など無遠慮に言われ続けました。その後、長男を授かったら、今度は「子どもが一人ではかわいそう、二人は居なくては」と、人の事情も考えず、平均的な家族像を頭において、平均から外れることは、おかしいようなことを言われました。 しかし、私のこれから述べる二つのこと出来事から上野さんと同じように考えるようになりました。それは・・・・

夫は、輸出関連の仕事をしていたので、日本にいることは少なく、同居の義母(私にとっては姑)が1週間の病の末、亡くなった時には帰国できず、夫は死に目に会えず、私が喪主として葬式を出しました。

その後の、長男誕生の時には、夫はヨーロッパへ出張中で私一人で出産し、4日後夫は初めて長男と対面をしました。結局、夫は人生の中でたった一人の母の死とたった一人の息子の誕生に出合うことはなかったのです。この二つのことから、それ以後の私は「人の生死は自分も含めて、自分で何となかなるものではない。これからは、とにかく自分にも人にも精一杯できるだけのことをして生きていこう」と思えるようになりました。だから、上野さんが「人の生き死にに人為がはたらかないことに、もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」と言われたことが、すーっと何の抵抗もなく頭と心の中に入って来たのだと思いました。

まさに、上野千恵子さんに大拍手を送りたい気持ちです。

# by eastwatery | 2011-02-15 23:33