ヨーロッパ旅行 その2


旅行の第3日目の5月13日には、ドイツのフュッセンのホテルを出て、モーツアルトの生誕地であり、音楽の都として名を馳せるザルツブルグへ向かいました。
ザルツブルグまでには、専用バスで約4時間を要するので、途中で、2回サービスエリアに寄りました。ドイツでは、労働者の人権を守るため働く環境が厳しく規制されています。例えば、ドライバーは2時間以上運転したら15分休憩、その次にさらに2時間走ったら必ず30分の休憩をとることを権利として保障されています。しかも、アウトバーンといえども、バスの場合は、速度制限があり、時速100kmでドライブするように統制されています。

したがって、ドライバーにはストレスが少なく安全運転をしてもらえるので、乗客としては安心して、居眠りすることもできます。さらに、私たちのドライバーは、ロマンチストで添乗員の説明が終わると、「禁じられた遊び」や「愛と死の・・・」などやモーツアルト等のクラシックのCDを邪魔にならない程度にかけてくださいます。

しかし、そうであっても、そうそう寝てはおられません。窓外の景色は郊外であれば、広葉樹の木々がずっと続き、時にはマロニエ、八重桜等もみることができるのです。また、広大な平野にはジャガイモ畑や牧草の緑のところどころにドライバーさんが「黄色の海」と表現した菜の花畑が、ものすごい広さで植えられており、ずっと走っていてもその美しさに飽きることはありません。ちなみに菜の花は、菜種油をとるために植えられているのです。

さて、この辺でザルツブルグの話に移ります。ザルツブルグ歴史地区観光ということで世界遺産となっています。また、この地は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」ゆかりの街としても知られ、落ち着いた街並みが大自然に囲まれている美しい古都です。ここでは、約2時間の余裕があったので、まず、「サウンド・・・」でおなじみのミラベル庭園を訪れました。訪問する季節としては5月が最適という通り、西洋式庭園として整然とデザインされた庭には、さまざまな花々が咲いており、旅の疲れが癒される思いでした。

次には、街並みの中にあるモーツアルトの生家(少し装飾的な黄色の建物)の3階・4階にモーツアルトが生誕以来、その成長に合わせて写真や楽譜などが丁寧に展示されており、説明文も
ドイツ語の下に英語が書かれていたので、日本人にも理解できるものでした。幼い時から天才と呼ばれ、その才能発揮して輝かしい人生を歩んだモーツアルトでしたが、結婚後、35歳という若さで亡くなってしまったのは、大変残念なことでした。

その後は、石畳の赤い屋根、花で飾られた家々のある美しい街並みを少し歩きました。が、当日のホテルはザルツブルグ郊外に位置しているので、早めに街を発ち、田舎風のホテル「アレーナシティ」に到着したのが午後5時。その後、夕食を摂りましたが、午後8時でも外はまだ少し明るいので、ホテルのはすかいの方向に12日に訪れたノイシュバンシュタイン城を望むことができたので、ぼんやり浮かび上がるこのお城を見て、第3日目の旅は終わりました。
 
明日は第4日目の5月14日、ザルツブルグから世界遺産・ウィーン歴史地区観光(シェーブルン宮殿等を訪れたことを書きます。4日目は、朝8時30分にホテルを出て、午後8時にウィーンのホテルへ到着という長~い1日となりました。
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# by eastwatery | 2010-05-24 22:48  

ただいまぁ~・・・帰りました(ヨーロッパ旅行 その1)

5月11日、午前11時半に家を出て、広島空港発9時40分(韓国)アシアナ航空のソウル経由でフランクフルト(ドイツ)へ旅立ちました。(時間差は7時間、飛行時間約1時間30分)フランクフルトには午後5時にやっと到着しました。そこから、専用バスに乗り、旅仲間29人+添乗員1人+専用ドライバーの31人で宿泊先のハイデルブルグへ向かい、午後7時30分にホテルへ到着しました。長~い1日でしたが、ホテルは心地良いもので、ぐっすりと眠りました。
今回の旅では、添乗員さん、ドライバーさん共思いやりがあり、機転が利いて、仕事に対しても責任と誇りと喜びを感じているお二人でした。参加者とも楽しいおしゃべりができ、今までで一番人とのつながりを楽しんだ旅でした。

(ここまでは、21日に書いたのですが、途中で眠ってしまいました。22日は1日中相談員の
研修があり、疲れ果てて、眠ってしまいました。どうもまだ、時差により、日中でも眠くなる傾向があるようです。以下は、23日に書いたものです。)

5月12日、白鳥城とも言われているノイシュバンシュタイン城へ。
ディズニーランドのお城は、このノイシュバンシュタイン城をモデルにしているとのことです。
このお城は10年前にドイツへ行った時に訪れているので、この城が未完成だということは知っていましたが、今回も外壁を工事中でした。城主のルードヴィヒ2世は、この美しい城をつくることに一生をかけました。借金をしながらも城の建築に固執して、その挙句最終的には精神病と周囲から言われ、不幸な最後を遂げたということでした。
以前も、この話を聞いているので、いくら城の外観が素晴らしくても、貧しい人々からの税金や借金をしてまで自分の思いを遂げようとした心情を理解できず、私は、真からこのお城が美しいと思えませんでした。「幸せに生きるとはどういうことか」を考えさせるお城でした。

その後、世界遺産のビ―ス教会を訪れました。この教会は、先の白鳥城とはま逆で、古く廃れていた教会を、ある神父さんが再興したことを信者たちが喜び、信者からの献金が多く集まり、ステンドグラスの美しい大聖堂が出来上がったのです。白鳥城と全く違うのは、白鳥城は、内部がいくら金や宝石でさまざまな装飾が施されていようと、温かい雰囲気が感じられないということ。

その一方で、ビース教会は、ステンドグラスの多さもあると思いますが、大聖堂全体に心を和ませる雰囲気が満ち溢れおり、もう少しゆったりと教会の椅子に座っていたい気持ちでした。

5月13日は、華麗な中世の街並みを残すザルツブルグ市街の歴史地区を訪れました。
これは、明日のブログでご紹介します。
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# by eastwatery | 2010-05-23 21:57  

「母の日」の贈り物


母の日(5月9日)の2日前、ゆうパックで息子からプレゼントが届きました。
昨年も、ゆうパックで花の寄せ植えを贈ってくれたので、「もしかして?・・・」という
熱い気持ちをもって箱を開けてみました。

当たり!でした。十数個も蕾をつけた真っ赤なカーネーション、斑入りの弦の小鉢、白い花が4つついたスパティフラム、もう一つは小さな花がいっぱいついたサボテン系の花(ちょっと名前を忘れてしまいました。もう年ですねぇ)

1昨年は、薄緑のカーネーション、昨年は今年と同じ赤のカーネーションと他の花々の寄せ植えでした。今、薄緑のカーネーションは、ボツボツ蕾が開き始めています。
そして、昨年の花たちは、1年間でずいぶん成長し、子どもから大人になったようなサイズになっています。

今夜は、明日、私たち夫婦が旅立つので、息子が夕飯を一緒に食べると言って帰ってきました。何時も深夜まで働いているのですが、今日は早めに切り上げることができたようです。
家に着くなり彼が言った言葉は、「贈った花たちはどう?忙しかったから早めにゆうパックで、カタログをみて頼んだので、実物を見せて」ということでした。

きっと、彼はそう言うと思いました。なるべく早くかごに4つの植物が入っているのを、大きな鉢に移し替えなければいけないのですが、彼がアパートに帰った後でも移し替えればいいことで、すから、プレゼントをしてもらった、そのままの姿を息子には見てほしかったのです。

だから、息子がリビングに入るなり「花は?」と言ってくれた時は、本当に嬉しかったのです。
私は、人にプレゼントをしようとする時には、この人には何をプレゼントすれば、喜んでもらえるか、を考えます。そこには品物だけでなく、その人に対する思いやりや愛があると思うのです。だから、息子が写真で頼んだプレゼントを、すぐに見たいと言った時に、本当に嬉しかったのです。

来年まで、今日プレセントしてもらった花々の子どもたちを元気で、逞しい大人にするよう、
育てていきたいと思います。 ありがとう!Kさん、また1年元気に仕事をし、活動をしていくよ。
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# by eastwatery | 2010-05-10 21:57  

10日間、お休みします


このところ、温かい、というより“暑い!”という感じの日々でしたが、皆様にとってはいかがでしたか?

今日は、朝一番に「せせらぎ公園」でウォーキングを楽しみ、帰宅後は、ひたすら夕方まで庭仕事に専念しました。なぜ、そんなに長時間庭仕事をしたかといえば・・・・。

私たち夫婦は実弟夫婦と共に11日から20日まで中央ヨーロッパへ旅行するからです。
中央ヨーロッパに当たる国は、いろいろありますが、今回、私共が訪れる国はドイツ、オーストリア、チェコ、ハンガリーです。わずか10日間で4カ国ですから、忙しい旅になると思いますが、
3年前から訪れたいと思っていた国々なので、楽しんで来たいと思います。

私が、2月末まで勤めていた協議会に就職する前から、夫から、ぜひこの4カ国の旅をしたいと言われていました。夫は、現役時代に仕事で様々な国へ出張していました。
しかし、いくらを多くの国を訪れても企業戦士の出張には、当然ながら観光は、そのスケジュールには入っていませんでした。退職後、夫は時々、今回訪れる国のドイツ以外の3カ国へ何時か行きたい、と願っておりました。(ドイツは、すでに訪れているので・・)。  ところが、2007年に私が就職をし、多忙な日々を送ったために、その夢はお預けということになってしまいました。

その間、夫はひたすらこの日が来るのを待ちながら、多忙な私をいつも気づかい、励ましてくれました。だから、今回の旅は夫へのお礼と、待ちに待った二人の夢の実現となります。
ヨーロッパまでは12時間かかります。現在77歳の夫にとって、このように長時間かかる旅は、今後できるか、どうか分かりません。精一杯楽しんでこようと思います。

そうそう、このたびが実現するには、もう二人強力な応援者がいました。息子が庭や室内花々の世話をすると快く引き受けてくれ、安心して行ってくるように、と言ってくれました。私も、そのつもりでいましたが、同時に何時も夜中まで働いている息子には申し訳ない気持ちがありました。

そこへ、中学以来の大親友のKさんが、「息子さんは仕事で大変なのだから、全て私に任せてね」といってくださったのです。幸い、彼女の家は、我が家から歩いて数分の所にあるのです。彼女とのお付き合いは、すでに55年に及んでいます。Kさんからのこの申し出を、ほんとに有難く思いつつ、心おきなく明後日広島空港からヨーロッパへ行ってきます。
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# by eastwatery | 2010-05-09 22:10  

友、遠方からも近場からも来る


私が福山市へいって以来、次々と友人が私宅を訪れてくださっています。

例えば、息子の幼稚園時代、「母の会」での絵本研究会での出会いから20数年来の友人。
私が仕事を忙しくしている時には、電話で短時間話すくらいだったので、仕事終了後には、なるべく早く会うということを約束していました。

彼女はフラワーアレンジメントと水彩画が得意な人です。素敵な器に彼女の自宅の庭の花をアレンジして、お土産に持ってきてくださいました。当日は、夫はゴルフへ行っていたので、簡単なランチを作り、二人でお互いの家族こと、仕事のこと、趣味のこと、次から次へと話は終わりませんでした。

そして・・・・その翌日は、オーストラリアに移住して30年、やっと広島に帰って来た友人夫婦が訪ねてくださいました。このご夫妻とは、以前私がニュージーランドから帰国後、オーストラリアに移住しようと、書類を取り寄せたところから縁が深くなりました。 我が家は、夫が「日本大好き人間」で移住はダメとなりました。それを知った、このご夫妻は移住にチャレンジし、ブリスベンから100kmの所で30年近く、日本料理レストランを営業していました。

その間には、1週間のうち4日間営業という生活でしたが、日本人の少ない地域にも関わらず結構繁盛したとのこと。しかし、彼らも夫が76歳、妻が67歳ともなると、さすがに日本に帰国したくなった、ということで広島市に近い、瀬戸内海の島で釣りを楽しみながら第3の人生を送る夢を実現させるために帰国されたということです。話はそれだけに終わらず、実は、半年はオーストラリアに居住(日本が寒い時には南半球で過ごすということ)、後の半年を瀬戸内海の島の別荘で(?)で暮らすということです。そもそも、彼らが日本脱出をしたときは、日本の高度成長期で、企業戦士の彼は、「このままで人生を終わっては、後悔する。オーストラリアで釣りをしながらのんびり過ごしたい」という思いでオーストラリア移住を決めたのですから、30年たって、やっと夢が実現できることになったのです。

その翌日は、中学校以来の私の親友が、訪ねてきてくださいました。彼女は結婚の時に、お互いに行き来が楽にできる所がいいと、先に結婚していた我が家の近くに家を構えました。そこは、我が家から5分くらいの所で、何かにつけて、さりげなく思いやりを持って、私が困っている時、
動きが取れない時に、助けてくれ、励ましてくれる人です。彼女がいなかったら、私の生活は、スムーズニ送れなかったこともあった、と思います。考えてみれば、お互いに支え合って53年、真実、親友として、付き合ってくださいました。彼女とのおしゃべりも夫も含めて数時間に及び久しぶりに、再び彼女の寛容で、温かな人柄に感動しました。

それから、1昨日は、私の友人ご夫妻が来宅。彼女とは、相談員仲間で、相談員になりたての頃には、相談の員の先輩として、いろいろ教えていただきました。
ところが、ある日、胃を全部摘出するほどの手術となってしまいました。当分の間、食べる量もわずかの日々でした。何とか一緒に食事をしようともう一人の仲間と共にバイキングレストランに彼女を誘いました。それがきっかけとなって、野菜主体のランチは彼女に食欲を取り戻させました。なんと、その日以来、彼女は少しずつでも食欲を増すことができました。
そうであっても、放射線治療は、大変です。薬や治療の副作用で、最近、背骨が圧迫骨折となって杖に頼って歩く生活になってしまいました。どこへ行くにも、夫のMさんが彼女のアッシーとして付き添い、ご夫妻ともその現状を受け入れ、できる範囲で行動をしておられます。約1週間前「Eさんと話したい」と彼女から電話があり、ティータイムをしながら話すこととなったわけです。
ご夫妻に来ていただいて、いろいろ話すうち、二人とも定年退職者ですが、Mさんと私の実弟とは同じ会社(部署は異なる)ということが分かりました。急遽、我が家から車で15分の所から弟夫婦もティータイムに参加し、3夫婦そろってのおしゃべり会となりました。

こうして、この何日間を振り返ってみると、様々な人生を歩んでいる人と共に自分の人生のページを作って来たのだと、改めて人とのつながりの大切さを感じました。
まだ、これから夫の後輩夫婦2組を自宅に招待して食事会をしたい、という夫の要望が出ているので、無理のない日程を計画し、おしゃべり会を開催したいと思っています。
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# by eastwatery | 2010-05-04 22:28  

堤 友彦さんの歌

昨日のブログの最後に書いた堤 友彦さんの「差し出すこの手のむこうには」を皆さんにご紹介します。

あなたのように うまく伝えられないけど   ぼくのように あなたも伝えられない
一人で 生きれるようにって 君は言うけど
人は 一人では 生きていけない
ぼくは あなたと 生きることを 考えたい
ぼくは みんなと 生きることしかできないから
だめかなあ?って聞く僕に 大丈夫って 聞こえてくる
差し出すこの手のむこうには 信じる人が きっといる
信じる人が きっといる

あなたのように うまくあらわせないけど   ぼくのように あなたもあらわせない
現実は 厳しいんだって 君は いうけど   にげだす事なんてできない
ぼくは ぼくらしく 生きることを 考えたい
ぼくは ぼくらしく 生きることしか できないから
ダメかなあ?って聞く僕に 大丈夫って 聞こえてくる
差し出すこの手の むこうには 信じる人が きっといる
信じる人が きっといる

この詩には、お母様のコメントがついています。

「手探りでやってきた音楽活動も、今、付き合ってくれる人たちに力を借りながら頑張っています。 何度練習しても超えられない障害の壁。“それは、周りの役目だと思う”といってくれる仲間の声に、勇気をもらって“共に生きるすばらしさ”を伝えたい」

友彦さんは、これまで家族はもちろんのこと、同級生や周りの人々からも愛されながら32歳の人生を歩んでこられました。人は、この世に誕生して以来、親や周りの人たちから無条件に受け入れられ、愛されることによって、「基本的信頼感」が生じると言われています。

この「基本的信頼感」は、生きていく根っことなる部分となって、人の人生を支え続けていく事になるのです。人は長い生涯の中でさまざまなストレスに出会います。このような時に、生涯を通してどの時期においても、複数の重要な他者(両親、きょうだい、友人、先生など)がいて、これらの人々が、その人の人生を支えることになるということです。

友彦さんの人生は、誕生以来愛されながらも、1歳3カ月の事故以後、彼にとっては大きなストレスと向き合う日々が続いたであろうことは、想像に難くない事です。しかし、昨日のように常に穏やかな笑顔で語りかけ、歌う友彦さんの生き方を見るとき、上述の歌のように彼の傍には、常に「信じる人」の存在があるということです。
だからこそ、「僕は、ぼくらしくしか生きることしかできないから」とはっきりと言えるのです。
そこには、「あきらめるのではなく、ありのままの自分を受け入れて生きる」という覚悟があり、そう言い切ることの爽やかさがあります。

昨日は、時々弱い心が現れて、前向きな考え方ができない私に、友彦さんから「勇気と前向きに生きる強さ」をいただきました。
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# by eastwatery | 2010-04-25 21:12  

メンター講座修了生主催のオープンハウス


広島の空も今日はやっと晴れ、暖かな春の日差しが気持ちの良い1日でした。
今日は、天気だけでなく、心が温かくなるような出来事がありました。

それは・・・・・・・あるイベントにより私だけでなく、参加者みんなの心が春風以上に爽やかで、温かくなったのです。

私が、2月末まで広島県再チャレンジ学習支援協議会に勤務していたことは、ブログを訪れて下さっている皆さんはご存知と思います
実は、今日のイベントは、その協議会で実施した「メンター養成講座」(福山市)の修了生たちが、開催した第2回のオープンハウスで行われたのです。

イベント会場は修了生のリーダーであるKさんの家が会場となっており、これがまた、建築後50年近くたっているかと思われるようなお庭付きの懐かしい民家です。一歩、邸宅内に入ると、そこ、かしこに春の花々が植えられており、そこでお茶を飲むようにもなっています。部屋は、大きな2つの部屋のふすまをはずして通しになっており、そこには趣のある品々が飾られたり、庭の花々が陶器の花瓶などに品よく活けられており、Kさんのセンスの素晴らしさにうっとり。
昼食は、全て手作りのタケノコご飯やおうどん、おでん、あえもの、お漬物など木製のお盆にしつらえてあり、薄味の上品なランチでした。
これらの一つ一つだけでも心温かくなるものでしたが、それ以上に二つのイベントが開催されたことで、さらに心打たれると共に勇気をいただきました。

初めに、路上詩人のピノコさんの実体験のお話。長年のうつ病で生きる希望を失い、何度も死のうと思ったり、泣いてばかりいた自分が「動けば変わる」という体験談を話されました。彼女が立ち直った言葉は、彼女が誰も見ていないだろうと思いながら、書いていたマガジンに対して「読んでいるよ」と書いてくださった、彼女が恩人と仰いでいる「てんつくマン」さんの一言だったとのこと。自分の事をちゃんと見守ってくれている人がいる、と感じたことにより「自分から動けば変わる」ということに気づかれたのです。

それ以後、ピノコさんは、てんつくさんのグループに入り、今ではカンボジアの子どもたちのために、いろいろな活動をしたり、路上詩人として色紙や和紙に詩を書くなどして、自分らしく生きていらっしゃいます。

次には、チャリティミニコンサートをして下さった全盲のミュージシャンの堤友彦さん(32歳)のコンサートでした。堤さんはシンガーソングライターでキーボードによる弾き語りをし、その歌は、彼自身が作詞・作曲されたものです。今では、あちこちでミニコンサートを開催していらっしゃいます。今日は、彼のお母様がオカリナ、お父様がギターで彼のキーボードと合奏をし、司会はお母様でした。
お母様の話によると、友彦さんは、1歳3カ月の時に出窓から落ち、左脳の脳みそが大部分溶けたようになり、医者からは、命があったことが不思議だと言われるくらいの大怪我だったそうです。これまでに8回の頭の手術をし、現在の後遺症は、全盲、右手右足のマヒ等ですが、その歌は、テノールの艶のあるきれいな声です。

常に、にこにこと笑顔で話し、歌い、天使のような感じです。彼は上述のような後遺症があるにもかかわらず、小・中・高等学校と普通の公立学校へ通いました。高校入学には、3年かかりましたが、その間、同級生が以下のような歌を作って友彦さんを励ましてくれたそうです。

あの子とは、 ずっと  いっしょに大きくなってきた  
いつも あの子 鼻歌をうたってる  エレクトーンも上手なんだ 
いつも明るく笑ってるんだ  見えなくたって 走れなくたって
一緒が楽しい  一緒が楽しい  これからも  ずっといっしょがいいのに

(以下略)

今まで ずっと 一緒だったんだから  見えなくたって  心で見えてる
一緒があたりまえ  一緒があたりまえ
今まで  ずっと一緒だったんだから  これからも  ずっと一緒なんだから


このところ、バラバラ殺人事件、そして子どもへの虐待死や事故死等がニュースで伝えられることが多く、日本人の心が壊れつつあるのではないか、と怖くなっていました。

でも、友彦さんは、ご両親を初めとしてきょうだい、友人たちに愛され、常に「君がここにいることがすばらしい」という気持ちを皆から伝えられて、常に穏やかな笑顔と語りをされたのです。
私はもちろんですが、多くの参加者が感動して涙していました。
今日は、福山市からの帰途も、「温かな心」をしっかりと家まで持って帰りました。

もう一つ友彦さん作詞「差し出すこの手のむこうは」は、明日ご紹介する事にします。
長い間、読んでくださってありがとうございました。
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# by eastwatery | 2010-04-24 21:10  

久しぶりの再会(4月18日)


4月16日には、夫が会社の寮で生活した頃の先輩のご夫妻2組を我が家へご招待をして
昼頃から暗くなるまで3夫婦で話し込み、楽しく豊かな時を過ごしました。

夫は高校卒業後、竹原市で一人暮らしをしている母を残して東洋工業(マツダ)へ勤務していました。その時から母にも生活費を送り、寮で生活していたわけですが、入寮以来、この2名の方々に優しく接していただき、その恩は返しようもないくらいです。

夫と二人で、とにかく3夫婦が元気なうちに我が家へ来ていただいて、昔話をしながら、私の拙いけれど、心のこもった料理を召し上がっていただきたい、とかねてから考えていました。
しかし、私が2年半ほど、仕事に熱中したために、その時間も取れず、そのままになっていたので、やっと(家の片付けも済んで)2組の夫婦を招待することができました。

なにしろ、後輩である夫の年齢が77歳(私68歳)、81歳(妻77歳)、80歳(妻78歳)の夫婦像は、何十年も前であれば、「年寄り」という雰囲気があると思いますが、みなさん、その年齢年齢なりに輝いていらっしゃいました。

しかし、日本の高度成長期を推進してきた、まっただ中の人たちですから、年賀状のやり取りだだけでは知りえない話が、次々と出てきました。

なんと、お二人とも定年後に死を覚悟するほどの病気になったり、大手術をしていらっしゃったのです。一人は心臓へ通じる部分のバイパス手術、もう一人の方も心臓の病にかかり、何種類かの薬が手放せないとのことでした。当日は「3夫婦が元気でいるという、お祝いの会をしよう」ということで集まり、箸も「寿」の入った箸袋を選んだのですが、こうして、重い病から生き返っていらっしゃったのですから、まさに、当日は「お祝いの会」になったのです。

夫は、入社以来、皆さんと写した写真を整理し直して、見ていただくようにしていました。食事を食卓に整えるまでの間、3人の若い時代の思い出が次々と語られ、本当に楽しそうでした。体は80代でも気持ちは20代に戻り、私たち配偶者も一緒になって初めて聞く話を楽しみました。

しかし、さすがに80代、いろいろと考えて作った料理も私が考えた以上に皆さんが食べられる量は限られておりました。せっかくですから、お帰りの時には、折箱に詰めて帰っていただきました。たっぷり、5時間近く語り合った後、今度は、3年後に再び我が家へ来ていただく事を約束しました。

3年後を目標として、健康に気をつけ、再び「寮の同窓会」ができるように元気でいてほしい、と心から思いました。
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# by eastwatery | 2010-04-18 17:30  

企業戦士とその家族(4月11日)

仕事から離れて1カ月以上が過ぎました。
毎日とは言わないまでも、時間がある限り、これまで未整理のまま置きっぱなしになっていた書籍、文書、講演の原稿や資料、新聞への投稿文等を分野別に分けてファイルに分けたり、破棄したりしています。時には、過去に書いたものを読みふけったりするので、整理に時間がかかっています。

そういう中で、12年前に書いた短文が出てきて、「そういうこともあったなぁ」と思い、ブログに載せることにしました。以下が、その短文です。


自動車メーカーに勤めていた夫は、早朝から深夜までの勤務に加えて、たびたびの海外出張、ひどい時には韓国までの日帰り出張もありました。時差が10時間以上もあるヨーロッパへ出張して夜半に帰国しても早朝からの出勤。

私は、こういう状況に、夫はとても定年まで元気に勤められるはずがない、と思っていました。私たちには結婚20年目、夫が50歳の時に恵まれた一人息子がいます。彼が自立するまでは親として元気でいてほしいという気持ちはあっても、プロジェクトを組んで仕事をしている夫には、普通の生活は無理な話だし、夫も「仕事にのめり込んでいる」という表現がぴったりでした。

私は息子が小学生になった頃から、「お父さんはね、いつ死んでも仕方がないほどの働き方だから、お母さんは覚悟しているよ」と言っていました。

今、思えば何と重い事を言っていたのだろうと、自分を責める気持にもなります。

そして・・・・息子が小学校3年生の時の夏のある日、夫は定年を元気に迎えることができました。その時、息子が言いました。「お父さん、死なないで良かったね」と。
私も息子も、もちろん夫も、この日の事を忘れないでしょう。


これを読んで、今更ながら私は何と残酷な事を幼い息子に言ってしまったのだろう、と後悔しきりです。自分の不安な思いを、年端もいかない息子に言ってはいけない、という考えが自分自身の中になかったほど、追いつめられていたのだと思いました。
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# by eastwatery | 2010-04-11 22:56  

理想の1/2結婚(2010年4月7日)

「男が女を養う」という考え方ではなく「稼ぎも責任も半分ずつ」という対等なパートナーシップで、結婚生活を送りたいという独身男性が増えているという。

しかし、この考え方は、本当であろうか。単なる頭で考えただけのポーズではないだろうか? というのは、私の知人の研究者によると、確かに「家事を分担する」と回答する男性は増えているのは事実ではあるが、実際に(具体的行動として)共働きの妻と家事分担をしているか、ということになれば「ノー」なのである。

「男女共生」を考えるときに、必ず出てくる言葉として「性別役割分担意識」というのがある。男女の関係を対等なものにしていくためには、この意識をまず変え、実行していくことが必要なのである。確かに様々な情報の影響を受け、とりあえず頭の中での意識は変わりつつある。
しかし、それを行動化することができない。つまり、観念的にはわかっていても、具体的に行動するという実践面(自分が関わること)においては、行動できていないのである。したがって、その双方のギャップを埋めていかなければ、本当の意味での意識は変わらないということである。
これは、「なぜ意識は変わらないのか」を明白に表している。また、意識が変わるカギは「父親」、「夫」が日常生活の中で具体的に行動を示しているか、否かが重要ということである。

これとは別に、対等な役割分担ができないという原因は、企業の中で、「性別役割分担」があり、男性の方が長時間労働になりやすいという現実がある。1999年4月より「男女雇用機会均等法」が改正され、雇用での女性差別は一切禁止となった。女性の活用という面では大いに評価されるが、問題は女性が男性と同様に長時間労働時なりやすくなった。「男性を含めた男女共通の労働時間の規制」がなければ、男性の家庭参加は望めず、「女性だけが仕事も家庭も」となり、過労死することになりかねない。

最近の若い女性の間では、このような社会・職場環境から、女性が自立を考えるというより、専業主婦思考が高まっているとのこと。再び、1960年代~80年代までの日本の高度成長時代「男は仕事、女は家庭」に戻ろうとしているのだろうか。この「性別役割分担」が効果的であったのは、あくまで「終身雇用」・「年功序列型賃金」制度が機能していた時代だったからである。

現在のように、デフレスパイラルの中に入ってしまうと、会社の規模に関わらず何時、会社が倒産するか、夫が何時リストラされるか、そうでないにしても何時から給与が極端に下がるか分からないのである。そのように考えると「専業主婦」ができるということは、かなり恵まれている一部の人たちだけなのである。

しかし、キャリアアドバイザー仲間の30代の女性が、「これからは妻も働く必要性がある」という話を同年代の何人かの人にした時、「そういう状況になったら、その時に考える」とか「実家に帰れば何とかなるでしょう」という答えが返ってきたとのこと。これが、本気で答えたのだとしたら、将来の日本、日本の家庭はどうなるのであろうか?
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# by eastwatery | 2010-04-07 22:04