「原爆投下後65年目の広島」で考えること(2)


このような私たち子どもの話を母は、どんな気持ちで聴いていたのだろうと、今になって思います。不思議なことに、母は、どんなに苦しい時でも「原爆を落としたアメリカが憎い!」などと言ったことは、一度もありません。夕食の団欒では、いつも一人一人の子どもの、楽しかった話や出来事を嬉しそうに聴いていてくれました。小さなお店での商いだったので、店を閉めた後も、母は仕立物の内職をして生計立てていました。

しかし、豪農の長女として何不自由なく育った母、結婚後も手広く商業デザインの仕事をしていた父の妻としてゆったりと幸せな生活を送っていた母にとっては、生活の激変の中で生きていくことは並大抵のことではなかったと思います。しかし、愚痴をこぼすこともなく、「あなたたち子どもがいるから、なんとかやっていけるのだ」、「参観日に行っても、どの子も良い子だと先生が言われるので嬉しい」といつも私たちに言ってくれていました。

母がそのように強く生きて私たちを育ててくれたのには、父と母が深い愛情で結ばれていたからだということが、私が成人した時に母が話してくれた話から分かりました。
母は父との結婚生活について、「お父さんと一緒に暮したのは、10年だったけど、お母さんはお父さんに10年の間に一生分愛してもらったと思っているの。4人の子どもを寝かしつけた後、お父さんと二人で夜遅くまで話したことを時々思い出すの」と幸せそうに話してくれました。

母は、広島に原爆が投下される前日の8月5日も家の整理などで自宅へ行き、その日は泊る予定にしていました。しかし、父が「もし、何かがあって夫婦二人が死んでしまったら、子どもたちは、みなし子になってしまう。大変だと思うが、頼むから疎開先へ帰ってほしい」と言ったそうです。そのおかげで、私たち4人の子どもは、原爆孤児になることもなく、今の生活があると思うと、父の愛情を改めて深く感じるところです。

ここで、もう一つお伝えしたいことがあります。

私が結婚するとき、母は「お父さんは、子どもが生まれる度に、その子その子への願いを込めて絵を描いていたの。この絵は、あなたが生まれた時に描いて下さったものだから、東の家にもって行きなさい」といって、一幅の表装をした日本画を差し出しました。

そこに描かれていたのは、平安時代の「おすべらかしの髪」の若い女性でした。それまで、私が父の愛情を受けたと感じたのは、父が(前述の)防空壕へ抱えて降ろしてくれたことや、夕食の団欒で母が話してくれる父親しか頭の中にはありませんでした。

しかし、この話を母から聞いて以来、和室の床の間の父の絵を見ながら、人というのは生きていなくても、その人が自分のために残してくれたものから、十分に愛情を感じることができるのだと、親の思いの有難さ、大切さに思いを寄せるようになりました。それは同時に「親は、子どもに何を残してやればいいのか」ということ、言葉、もの、文章などいろいろありますが、それらが子どもに対してどんな時にも「生きる力」を与えることになる、と思うようになりました。

そして、このことは私が息子が誕生以来、彼に関するエッセイを書くことにつながっています。
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# by eastwatery | 2010-08-23 10:08  

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(1)

広島の8月6日を書こうと思いつつ、延び延びになっていました。それを後押ししてくださったのは、私の体験を若い世代に語る重要性を説いてくださった「とんちゃん」でした。
そして・・・・65回目の8月6日を迎えた今年の「私の8月6日」をやっと書く気になりました。


8月6日は、私の父の祥月命日です。毎年、朝5時起きをして車で30分のところにある
父のお墓参りに行きました。
私が3歳の時、父は広島市内で被爆死し、65年たった今も未だに遺骨は見つかってい
ません。いつものように、恐らく父の遺骨は平和公園の中にある行方不明者のため大きな
墓の中に、多数の被爆死した人と共に葬られているのだと思い、一束の花と線香をもって
お参りしました。
夜には慰霊のための「灯篭流し」の行事に行き、父へのメッセージを書いて流しました。
今年のメッセージは「お父さん、私たちは元気で幸せに暮らしています。安心してくだ
さい。9年前にお父さんの許に行ったお母さんと共に見守っていてください」と書きました。
多くの人がこのような内容を灯篭に書いて、死者へのメッセージを込めて元安川へ流すのです。
 元安川は、原爆投下当時、全身に火傷をした人たちが、暑さに耐えきれなくて飛び込み、
やがて、そのまま死んでしまった多くの死体が多く流れた原爆ドームの前を流れている川です。

私は父のことは、ほとんど憶えていません。唯一憶えていることは、空襲警報がなり、
父に横抱きに抱えられて2階から降り、防空壕に連れて行ってもらったこと、そして、そ
こで「おじや」(雑炊のようなもの)を食べたことです。抱えて防空壕まで連れいってもら
ったのが、果たして父なのか、どうかは分かりませんが、他のきょうだいからの話を合わ
せて、私を防空壕に連れて行ってくれたのは、父だと私は信じています。父の顔を見た記
憶はないのですが、抱えられたところからの階段の風景は、今でも鮮明に記憶の中に残っ
ています。

当時、母(38歳)と10歳、5歳3歳、2歳の4人の子ども、そして、祖母(父方)は
広島市以外に疎開していました。父(50歳)は兵隊ではなく、軍属として広島市内で軍の
仕事をしていました。 父は、8月6日には仕事の関係で市内の中心部にいたと思われま
すが、特定の場所はわかりません。当日、母は2歳の弟を背負って、父に会うために
疎開先から市の中心部へ向かう途中、中心部から約2km離れた位置で被爆しました。
母は、たまたま建物の影となる位置にいたので、背に負っていた弟ともども火傷もなく
無傷でした。

その頃、私と姉たちは、町の中心部から離れた疎開先で、原爆爆発後の雲を見たり、焼
けた新聞紙や綿・布の切れ端などが飛んでくるのを、何の危険も感じず、拾っていました。
母は、当日は、疎開先に帰ってくることができず、ずっと父を捜し歩いていたようでした。
家族は、爆弾が何か、何が起こったかもわからず、母の帰宅をずっと待ち続けました。 
翌日、母は、爆発後に降った雨や噴煙にまみれて顔中黒くなって、無事帰ってきた
母に私たち子どもは、皆で「おかあ~ちゃん」といって抱きついて号泣しました。

その後も、母は弟を背負って約1ヶ月間、毎日父を探すために、疎開先からで市内まで
出かけました。なかなか父に出会うことはできず、結局、父や父に関するものは何も
見つけ出すことはできませんでした。母は、あれでも父が自宅へ帰宅しているかも知れ
ないと思い、相生橋(原爆ドームの近くの橋)から300メートルくらいの所の自宅へも
行ったそうですが、父にも会えず、遺骨の一つもを見つけることもできませんでした。
隣家のおじさんなどは、黒こげになり、背丈も半分くらいになっていて、悲惨だった、
と後年母から聞かされました。父だと知るためには、至る所にある被爆死した人たちの
口を開け、歯並びなどを調べたとのことでした。普通の状態であれば、死体に触るなど
気分的に出来ないはずですが、母は、とにかく「父に会いたい。子どもたちのために
生きていてほしい!、それがダメであれば、父の遺体を見つける」というだけの一心で、
1ヶ月間広島市内に出かけた、と言いました。

8月6日以後の、戦後の母の生活は生き地獄のようなものでした。姑(私の祖母)と4人の
子どもとたちを抱えて、一人で家計を支えて行くことは並大抵ではありませんでした。
もちろん、私たち子どもも中学から新聞や牛乳配達等のアルバイトをし、母と共に
貧しくても逞しく生きてきました。夕食の団欒の時に「もしかしたら、お父ちゃんは生きて
いるかもしれないけど、記憶喪失になっていて、どこかで生きとってかもしれんね。
そして、記憶がはっきりしたら、家へ帰ってきてかもしれんね。」と、よく話していました。
私は無邪気にその話を信じていましたが、私より年長の姉などは、それがかなわない事
だと思っていたのか、時々涙していました。

長いので、今日はここまでとします。
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# by eastwatery | 2010-08-17 22:02  

就職・再就職講座変革期に生きる」~その2~

またまた、ご無沙汰してしまいました

7月18日以来、またまたご無沙汰をしてしまいました。「交流分析士2級」の研修を5月から受講していたのですが、その試験(約3時間)が8月1日に実施され、ちょっと受験勉強と仕事に時間を取られ、ブログを書く余裕がありませんでした。
今日は、前回に引き続き、第4回目就職・再就職講座の4回目の前半を書いていきたいと思います。前半では、キャリアプランを作成するために、これまでに学習し、自身を振り返ったことも含めて、「自分を知る~今できること、やりたいことは?」をテーマとして1.5時間の講座をしました。

「正しい自己理解」をするためには6項目ありますが、長くなるので、これらをまとめて表すと “正しい自己理解+適切豊富な情報=正しい意思決定が可能・・・・このことは明確なキャリア目標 ⇒ 意識強化 ⇒ 行動変容 ということになります。ただし、行動変容に至るまでには、時間がかかりますが、時々自分の生き方にジレンマを抱いていた人の場合は、講座を受講することによって、ピタリと自分の悩んでいた部分に気づき、突然意識が強化されて行動変容に行く人もいます。

つまり、意識強化とは「その目標に向かう意識が強くなってくる」ということであり、その次の行動変容とは「意識が変化した後、行動が変わるということ」です。実際に講座を受講することで、これまで自分が固執していた自分の「仕事観」について疑問を持ち、受講しつつ自分を見つめるうちに仕事観が変わって、「就職できた」という人が何人もいます。

「自己を知る」ためには、チェックシートをして自己分析をして今まで見えなかったことを発見することができます。そのために、まず大切なことは「イメージ力」を鍛えることです。例えば「5年後、10年後に、どんな自分になっていたいか?」ということ。目標や夢が実現できるかどうかは、「イメージ力」にかかっているのです。将来を具体的に描くことができれば、それに向かってやるべきことがはっきりするので、夢に早く近づくことができます。

要するに、①将来を具体的に描く⇒明確なキャリア目標に向かう【時間管理の必要性】、
②これまでの人生で経験したことは「全てキャリア」⇒適切で明確な情報【情報の整理】、
③「生きること」は「毎日選ぶこと」の連続⇒個人の「価値観」が重要【自分の価値観で選ぶ】ということです。

そこで「自己を知る」=「自分に適した職業を探るには、どうすればいいか」ということを基としてチェックシートをしてもらいました。これに関しては様々なチェックシートがありますが、今回は受講者の属性、講義時間等を考慮して次のシートをしてみました。①自分の強み、弱み、②好きで上手を探ってみる、③あなたのアピールポイントは?、④興味・関心のある仕事・職業、⑤働き方のスタイルを選ぶ、をしつつ、間で、各グループごとに4名くらいで気づいたことを受講生同士で話し合う時間を取りました。

その後、「仕事を考える」を3段階に分けて(資格の取得、情報の収集、重要なこと)について講義をしました。特に、女性の再就職に関しては、資格の学習からスタートするのではなく、結婚、育児、介護などで中断してしまった「自分のキャリア」を、どのように繋げるかを、じっくり考えることが、重要となります。

前半の1.5時間で、これらの事をし、後半の1.5時間では「私の決意・アクションプラン~キャリアプランニングで今日から実行」をテーマに各々がシート「私のアクションプラン~なりたい自分(キャリアゴール)に向かって~」に10年後の自分の目標とするイメージを7項目にわたって記入してもらい、最後に質問を二つ。
Q1)この宣言をした今、10年後のあなたに、どんな言葉をかけてあげたいですか?
Q2)10年後のあなたからは、どんな言葉がもどってくるでしょうか?

このような形式のシートに記入後、一人3分を目安に受講生皆の前で自分のアクションプランの発表をしてもらいました。その堂々とした発表や、その後の受講生の反応、コメントについては、次回にします。 今日も長いブログになってしまい、申し訳ありません。
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# by eastwatery | 2010-08-03 22:24  

就職・再就職講座「変革期に生きる」~その1~

ヨーロッパの紀行文を書いていたので、6月23・30日に2週連続で広島市女性教育センターで女性を対象に行った就職・再就職支援講座の報告が遅れました。

昨年度も、ほぼ同じ時期に女性対象の就職・再就職講座を開催しました。今年の講座は、全4回講座のうちの3、4回目を私が担当しました。昨年は、「キャリアとジェンダーを知ろう~就労と女性特有の問題~」(1.5時間)だけでした。が、今年は、まず3回目には、講座の持ち時間3時間の中で、10分間の休憩をはさんで、前半は昨年同様「キャリアとジェンダー・・・・・」をし、後半は「キャリアプランの考え方~キャリアの棚卸、経験の整理」を実施しました。

私は、第1回から講座内容、受講者の様子や変化を知りたかったので、第1・2回とも会場の後ろで講座に参加し、時にはファシリテーターとしてお手伝いをしつつ、毎回少しずつ成長していく受講生15名の姿を楽しみました。受講生の人数が少ない、と思う人もいると思いますが、これでも多いくらいです。

なぜかというと、1.5時間の間には、講演だけでなく、チェックシートにより受講生自身の価値観や仕事観、経験の振り返りを知ってもらったり、そのことを各グループ3~4人で話し合ってもらうという、受講生の主体性を高める参加型学習をするからです。えてして、講座は参加者人数の多さで評価をされるものですが、私たちはそうではなく、一人ひとりの姿や変化を見ることができる講座を目指しました。

今年の受講生は、第1回から講座への気合いの入れ方が、昨年とは全く違っていました。まず、講座の30分前には、すでに数人が会場に入り、準備を手伝ってくださいますし、講座10分前には、ほとんど全員がそろいます。また、やもえず欠席する時には必ず前日、ギリギリでも講座の20分前までには届け出がありました。
そういう学習態度ですから、全員講師を真剣に見つめ、微動だにせず聴講し、チェックシートをする場合もダラダラする人がいないので、予定していたより、より早く仕上がって、、その次のグループで話し合うこともスムーズに進行できます。グループの中で事前にリーダーを決めなくても、スムーズにリーダーが決まり、全員が発言します。

こういうグループなので、私が担当した回では、1・2回で同じ仲間のグループができていたので、3回目、4回目ではカードを取ってもらって、毎回グループ編成を変えました。こうすることで、より多くの人の考え方や価値観を知ることにより、自分の価値観に他者の価値観を取り入れて、新たな価値観を得やすくなってくるのです。

第3回の前半は、昨年と同じテーマでしたが、第1・2回の講座を見たので、今年の受講生に適したようにかなり内容を変えていきました。昨年の受講生は「今すぐ就職をしないが、再就職を考えておこう」という考え方の人が多かったのです。しかし、今年は、経済・社会状況が、1年の間に激変しており、5月末で解雇された人、シングルマザーで頑張っている人など、すぐにでも職を得たいと思う人が多かったのです。

そこで、私は、第3回目も4回目も参考資料を増やし、それに関して宿題も出しました。せっかく真摯な態度で受講して下さる人たちに何とか応えたいと思ったからです。これまで、いろいろな講座をしてきましたが、宿題を出して、きちんとしてくる人は少なかったのですが、今回の講座は違いました。受講生の必死さがはっきりと表われていました。

第3回目のアンケートでは「まず、自分の意識を変え、仕事と家族、自分の生き方を変えていきたい。自分を知ることの大切さがわかった。女性だからと諦めない。周りの人の目や意見ではなく、自分の意思・意志を大切にして生きていきたいなどなど・・・」、かなり自分自身の内面を知り、考えて意識を変える大切さを知った人が多かったようでした。

私が何度も、チェックシートを吟味したり、講座構成を考えたりするので、夫から「あなたの仕事は時間給10円だね」と言われましたが、時間給ではなく、受講生からお金には変えられないほどの喜びと充実感をもらいました。

第4回目の受講生の様子は、次回に書く予定です。
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# by eastwatery | 2010-07-18 22:47  

小学校3年生の時のクラス会


6月24日(木)11:30~14:30のスケジュールで広島市内原爆ドームの横、元広島市民球場の斜め前にある「広島の宿 相生」で5年ぶりにクラス会をしました(私たちは、本川を挟んで原爆ドームの真向かいにある本川小学校の卒業生です)。

普通、クラス会と言えば、卒業年(小学校でいえば6年、中学校・高校:3年)の場合が多いのですが、私たちは、68歳になっても、まだ13歳違いの小3の担任だった女性の先生が大好きで、時々、こうしてクラス会をしているのです。
実は、5年前まではほとんど毎年クラス会を開催していたのですが、ここ数年間先生の体調が悪く(難病のため)、開催することができませんでした。私は女子代表、もう一人が男子代表のクラスメートで、何度も先生に「今年こそクラス会をしましょう」と提案し、何とか今年やっと開催にこぎつけました。

なにしろ、クラス会の前夜「Eちゃん、私は余り体調が良くないので、明朝、車で迎えに来てくれる? もしかして、もっと体調が悪くなったらだめかも?」という電話がかかって来ました。「先生、とにかく皆は先生に会いたくて集まるのだから、顔だけでも出してください。辛かったら、いつでも寝られるように和室にしているし、ホテルにも先生が横になれるようにお願いしているから、大丈夫ですよ。私が先生をお迎えに行けばいいのだけど、幹事として準備の都合があるので、いつも優しいA君にお迎えを頼みますから、大丈夫ですよ」と赤ちゃんをあやすように話して、何とか納得していただきました。A君にそのことを依頼すると、「いいよ、僕に任せんさい。Eさんにもいろいろ心配かけてごめんね」(広島弁)、といういつもながらのやさしいA君でした。

さて、無事に先生の体調も良くなって、クラス会を開催する運びになりました。今回は東京・横浜から二人のクラスメートの参加がありました。一人は、元広島カープの東京の応援団長をしていたTくんと、もう一人は横浜市で「古伊万里からくさ資料館」(約300年前に作られた花唐草模様の器皿150点など)を経営しているNくんです。

Tくんは、小学生の時は体格も良くクラス一のわんぱく坊主でしたが、今では2回の脳梗塞を患い、動作と言葉に少し難点があり、Nくんが介添えの役割も兼ねて参加してくれました。Tくんは、余程先生と会いたかったらしく、部屋に入った途端に不自由な体で急いで先生のもとに行き、抱きついて、しばらくワンワン泣き、先生も彼を愛おしそうに抱き、一緒に泣いておられました。この時、Tくんは、完全に小学校3年生のわんぱく坊主に戻っていたのでしょう。

二人のこうした様子を見ていたクラスメートもみんな、涙、涙でした。私は、この素晴らしい光景を見ただけでも、クラス会を開催して本当に良かった、と思いました。私は単なる連絡係、①小3の時のクラス全員の写真をスキャナーに取った後、パソコンに取り込んで、ハガキ版の写真に仕上げて皆に配布した、②花束を頼んだ③寄せ書きをのアイディアを出し、色紙を用意したことくらいで幹事らしいことは、していません。
しかし、共に準備してきたWくんは、それ以外の案内状の作成・送付、お持ち帰りのプレゼントの選定・配布、私が準備できなかった女性への案内状など、数えきれないほどの幹事の役割をして下さいました。

クラス会では、小3当時の授業の話、先生が途中で結核になられたので、皆でお見舞いに行ったこと、先生が自宅で療養中に数人くらいのグループで歩いて40分くらいの所へ先生に会いに行ったことなどなど、数えきれないほどの思い出の数々が語られました。

いつのまにか、先生の体調は絶好調となり、来年、私たちが古稀を迎えるので、お祝いとして全て先生がご招待をしてくださるという話となりました。先生いわく「あちこちが痛い、辛い、と言っておれないと思った。絶対元気になって、生きていて、あなたたちの古稀を祝うからね」。

後日、W君から集合写真、スナップ写真が送られてきましたが、先生を初めとしてみんな、本当に「しあわせ!」という表情を浮かべていました。みんなの提案で、今年から、とうとうWくんと私が永久幹事になりました。来年の私は、今よりもう少し時間に余裕がある予定なので、W君をもっと助けて、再び先生を初めとして、みんなの顔がもっとか輝きを増すようなクラス会をしたいと思っています。
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# by eastwatery | 2010-07-16 22:06  

ヨーロッパ旅行(その6)


ヨーロッパの紀行文も今日で終わりとなります。5月20日に日本に帰国後、1ヵ月半もたっていますが、まだ、感動したことは、鮮やかに思い出しています。

第8日目は、午前8時にプラハのホテルを出発し、中世から残る城壁に囲まれた街、ドイツのニュルンベルクへ向かいました。ここでの観光は、大きく美しい噴水のある聖ゼバルドゥス教会、、その周辺に数多くある露店の店の数々を見て歩きました。

ドイツの露店は、日本のそれとは違っていろいろな種類の大小の露店が多く出ています。
例えば、チーズ専門店、ケーキやクッキーのお店、フルーツや観葉植物、花屋さん、ハーブの店など。そして、もちろんお土産の専門店ですが、大小にかかわらず、そのお店独特のものを売っていました。 ドイツと言えば、ワインが有名ですが、露店にはなく、私たちはそのあたりにあるスーパーマーケットで買いました。
その後、ロマンティック街道の起点の街、ヴュルツブルグへ向かいました。バスの窓からの景観は、マイン川沿いにそそり立つ要塞や、バロック建築物等を見ました。意外なことに、この街は若者の多い学生の街でもあり、また、辛口の名酒フランケン・ワインの生産地でもあるのです。

 この日は、旅の疲れも出るころでもあり、日程はゆったりと取ってありました。夕食はホテルではなく、いかにもドイツという雰囲気のあるレストランで、いかにもドイツという肉とポテトのメイン料理でしたが、ディザートに出たチョコレートムースは抜群の味でした。欲を言えば、コーヒーの味が、いまいちだったかな?というところでした。

 さて、この日は私たち夫婦がこの旅で一番楽しみにしていたドイツ人の夫婦ウォルフガング・フィッツナーさんとミラさんとの3年ぶりの再会でした。このご夫妻とは、夫の仕事の関係で10年以上も前から交流していて、このお二人が広島に来られた時には、私が広島の街をミラさんにご案内する、ショッピングを楽しんでもらうなどしていました。いつか、100円均一のお店に案内した時、ミラさんが大興奮されたことが印象深く残っています。でも、さすが堅実を重んじるドイツの方、よくよく吟味してショッピングされたのには、学ぶことが多くありました。

話が横道にそれてしまいました。今回のドイツの話に戻ります。実は、お二人は私たちが最後のヨーロッパ見物をしたヴュルツブルグの近くの街へ住んでおられるので、午後7時半ころ私たちの宿泊先のホテルへ来て下さいました。しかも、様々なドイツワインを持参し・・・。 お互いの夫婦の共通語は英語。どちらとも第二外国語を話す訳ですから、スピーキングの速さや単語なども、それほど難しくもなく表現も簡潔で分かりやすく、あっという間に3時間が過ぎてしまいました。
夫は、以前は仕事で頻繁に英語を話していたので、ほとんど不自由はないようでしたが、私の場合は、時々理解できない事もありました。やはり平素から英語を使うように努めることが大事だと痛感しました。 そうであっても、フィッツナーさんご夫妻は、二人とも陽気で、親切で、ドイツ人特有の堅苦しさはないので、お互いに本音で話し合うことができ、本当に楽しいひとと時を過ごす事ができました。

夜も更け、さようならをする時には、お互いにハグして(抱き合って)、またの再会を約束して別れました。お二人とも仕事を持ちながらの忙しい中、車を40分走らせて会いに来て下さったことには大感謝でした。 今でもその時の4人の幸せそうな写真を出して、その夜の事を思い出しています。

翌日は、ヴュルツブルグ観光90分で大司教の宮殿として建てられた世界遺産・レジデンツの司教館へ行きました。現在のの司教は88代目ということで、いかに歴史のある司教館であるか、ということが分かります。観光後は、一路フランクフルトへ向かい、午後7時発フランクフルトよりアシアナ航空でソウル経由、帰国の途へ。そして・・・・10時間20分の飛行後、ソウル到着は午後12時20分。トランジットで日本へのソウル発は午後6時35分発なので、その間阪急交通社が手配してくださったサロンバスでソウル観光をしました。
・・・・ということで広島空港に着いたのは午後8時。数日は、時差ぼけが少し残ったようでした。これで、素晴らしい、思い出に残るヨーロッパ4カ国の旅は終わりました。長~い、紀行文を読んでいただき、ありがとうございました。
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# by eastwatery | 2010-07-14 21:42  

ヨーロッパ旅行(その5)


第7日目はホテルでの朝食後、中世の街並みが残り、欧州屈指の美しい町として有名な世界遺産・プラハ歴史地区を約3時間観光しました。

最初に訪れたのは、緩やかなブルタヴァ川の街並みを一望できるプラハ城でした。このお城は名実ともにプラハのシンボルとのこと。9世紀半ばに城の建築が始まって以来、幾多の変遷を経て、14世紀に現在の偉容が整えられたということでした。
城壁に囲まれた広大な敷地には、旧王宮、宮殿、聖ヴィート大聖堂等を初めとして、博物館、美術館と、いろいろな建物がありました。

門の脇には衛兵が直立不動で立っているので、近づいて挨拶をしようと近づきましたが、微動だにせず、視線すら動かしませんでした。ロンドンのバッキンガム宮殿を守っている衛兵は、絵になるほどのファッショナブルな制服でしたが、チェコの場合は、お役人さんの服装にちょっと衛兵らしい服装を加えた感じで、それぞれのお国柄が表れていました。

聖ヴィート大聖堂は、ゴシック様式の見事なもので、内部では豪華なステンドグラスがあちこちに見られました。昼食後は、阪急交通社が特別チャーターしていた歴史トラム(電車)に乗車し、プラハの美しい街並みや有名なカレル橋などもじっくりと見ることができました。

午後は、フリータイムの後、セントニコラス教会(St. Nicholase Church)での約1時間ソプラノとパイプオルガンのクラッシックコンサートで、夢のようなひとときを過ごす事ができました。この教会は、ヨーロッパ各地でみられるような豪華な教会ではなく、ステンドグラスもあったかどうか憶えていないくらい地味で荘厳な感じのする教会でした。

楽曲としては、バッハ、ヘンデル、モーツアルト等でしたが、何といってもソプラノの独唱の素晴らしさでした。特に「アベ マリア」等は、教会の構造上、あれほどの音響効果があるのかどうか、素人の私には分かりませんが、涙が出るほど感動しました。今回の旅のNO.1と言えば、まず「セントニコラス教会でのクラッシックコンサート」を挙げるのは確実です。もともと、音楽には関心がない夫が、(いつものコンサートのように途中から眠ることなく)真から1時間のコンサートにのめり込んでいたのが、印象的でした。
このコンサートを企画してくださった阪急交通社には大感謝です。

また、私たちと共に観光をしたメンバーのどの人も「旅の疲れがとれた、余りの感動にまだ、ボーっとしている」等、ホテルに着くまで感動の渦の中にいる感じでした。
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# by eastwatery | 2010-07-07 15:52  

ヨーロッパ旅行(その4)


6月1日に料理について書いた後、紀行文を書く暇もなく、相変わらずの忙しさの中で過ごしていました。その日々は、仕事だけでなく、プライベートの面でも、活動の面で時間をとってしまい、気分的に紀行文を書く余裕がなかった、というのが、正確な言い方かもしれません。その上、PCが故障して10日間は使用不可だったので、すっかり遅くなってしまいました。

さて、これまで4日目までの旅と調理について書いてきましたが、あのように書いていては、他に書きたいことが書けないので、旅の話は今回も含めて2回で終わることにしたいと思います。

5日目は、いつものバス(専用車)で午前8時時にウィーンを発ち、ハンガリーのブタペストに向かいました。ドナウ川をはさんだブタとペストの二つの町には、波乱に満ちた歴史の足跡がそこかしこに残っていました。地形的には丘が多く、王宮や遺跡、2世紀頃に栄えた建物が残る静かな町ブタ。

一方、国会議事堂や国立オペラ劇場等、政治や経済、文化を彩る建築物が立ち並ぶペスト。対照的な二つの町の姿を見ました。私たちは、ドナウ川が見える小高い丘にある「漁夫の砦」からオレンジの瓦屋根の家が木々の緑と美しく映えている街並みを楽しみました。

その次に訪れた「王宮」は13世紀に最初に建てられた後、ハンガリーの波乱万丈の歴史の中で戦争、火災、大改築を繰り返し、第2次世界大戦においても大打撃をこうむったとのこと。したがって、現在の「王宮」は1950年代に修復されたので、建物自体はそれほど古くはないのですが、その姿は威厳に満ちたものでした。

ハンガリーで買い物をする時には、ユーロではなくハンガリーの通貨を使わなければいけません。(しかし、お釣りの場合はお店によってはユーロで返してくれる時もあります)。
通貨の単位の名前はフォリント(Forint)であり、5月の時点で100フォリント=50円と換算してショッピングをするようにいわれました。ハンガリーのレストランでの昼食は、ハンガリーの典型的な料理である「パプリカチキン」でした。特別特徴はありませんでしたが、口当たりの良いものでした。相変わらず量は多く、やはり半分しか食べることができませんでした。

ハンガリーで気づいたことは、他の3カ国と比べて、まだまだ経済的に貧しいという感じの風景を見たことでした。地下道を通った時には、今の日本では珍しい風景・・・箱をおいて通行人から僅かのコインをもらっている人、いかにも生活が困難か、という服装でした。
また、他の国々では、多くの家や屋根にソーラーが備わっていましてが、ハンガリーでは、そういう家はめったに見ることができませんでした。ただ、風を利用して電気を起こす風車は、低い丘のあちこちで見られました。ドイツでは、国がかなり高い料金で各家の電力を買うということもあって、多くの家では、想像以上にソーラーが備わっていました。

第6日目は、ウィーンを発って、楽しみにしていたチェコへ向かいました。最初に訪れたのは、ボヘミアの深い森と大きく曲がったブルタヴァ川に守られる世界遺産の街チェスキー・クロムロフの歴史地区のでした。この街は世界で最も美しい街一つと言われています。
 石畳の敷かれた道が続く、中世そのままの雰囲気が残されている街中を抜けて、中世の面影が残るチェスキー・クロムロフ城へ行きました。13世紀に創建されたこの城は、その後次々に新しい建物が付け加えられ、それぞれの時代の様式が見事に調和した、巨大な複合建築でした。当日は、思い出に残るほどの感動はありませんでしたが、第7日目には、一生の思い出に残るチェコで素晴らしい体験をすることができました。

 このことは、第7日目のブログをご覧ください。
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# by eastwatery | 2010-07-07 15:05  

ヨーロッパ旅行での料理(前半)


5月25日にヨーロッパ旅行紀行を書いたまま、それ以後の忙しさでその続きを書くことができませんでした。

さて、今日は旅行中の料理のことについて書いてみたいと思います。
私たちは、(旅行の初日に書いているように)広島空港を午前9時40分に発ち、韓国のアシアナ航空に乗って第1日目はドイツのハイデルベルグへ到着しました。

広島空港を飛び立って、しばらくして機内食の朝食が出されました。(ちなみに、食事には関係ありませんが、アシアナの客室乗務員の方々は、イケメンと美女ばかりでした。もちろん、ホスピタリティも抜群)。朝食は、小さめの折詰弁当でしたが、巻きずし、いなりずしの他、小鉢には日本風のあえ物、3種類の果物が食べやすい大きさに切って小鉢には入っており、日本風のお漬物もありました。味付けも薄味で、とてもおいしい朝食でした。

そして・・・・昼食も機内食。狭い座席に座ったきりで、本を読むくらいですから空腹感は感じなかったのですが、それでも夕食も結構楽しみました。夕食は、2種類(ビーフステーキ、プルコギ)のうち、私はプルコギを選びました。香辛料がきいたものは、あまり食べたことがないのですが、ここでチャレンジ!とばかりプルコギを選んで正解(夫は、ビーフステーキを選んだのですが、脂身が全くない赤身の肉だったのでさっぱりだったとのこと)。メインはプルコギで、それ以外にはキムチやたっぷりの野菜、そして新鮮なパイナップルを食べやすく切ったもの多数等、初めての韓国食へのチャレンジは大成功!

2日目のホテル(ハイデルベルグ)はパークインペッペンハイム。ここでの朝食は、日本と同じようにバイキングでした。ドイツのパンがこんなに美味しいとは!外はこんがり、中はふっくら。朝食を早く食べたので、バスに乗るまでの間、ホテル周辺の街中を散歩していると小さなパン屋さんがありました。このたび一緒に旅行している弟夫婦の義妹と一緒に3種のパンを1個ずつ買ってバスに乗りました。なにしろ、ドイツの街中では、5分歩くとパン屋さんがあるというくらい、手作りのパン屋さんが多いとのこと。私たちが行ったパン屋さんにも続々とご近所のお客さんが来ていました。

2日目の昼食は、レストランでソーセージがメインの食事でした。3種類の大中小のソーセージとその傍らにじゃがいものクリームあんかけのようなものがついていました。3種類のソーセージはさすがにおいしかったのですが、その量は日本食に慣れている私には量が多く、何とかがんばって食べることができました。
ちなみに、今回の食事はコース料理なので、どこでもスープ、サラダ、デザートもついていました。

夜食は、ホテルで牛肉のカツレツのようなものでしたが、日本のカツレツと違って油がべたべたとしていて胸がむかつきそうでした。何とか、サラダを食べながら自分の胃をごまかしつつ、なんとか半分食べました。しかし、デザートのアイスクリームは、なかなかの味でした、
3日目の朝食はバイキング、昼食はビーフシチュウのようなもの、夕食は鮎のような魚のから揚げに、またまた、すごい量のジャガイモのあんかけのようなものでした。やはり、半分しか食べることはできませんでした。スープはコンソメでしたが、喉がヒリヒリするほど塩辛かったので、一口飲んだら終わりとしました。ただ、デザートのムースはおいしかったですよ。
そして、4日目の昼食がシンナーシュエッツル、夕食はカツレツのようなものにじゃかいもがそえてあり、3日目と同じような献立でした。

ここで、ちょっと説明すると、今回の旅行は、格安料金の割には10日間の全食事とオプションなしの観光がついていて、かなりお得感のある旅行でした。

ここまでが4日目までの食事でした。4日間、上げ膳据え膳の日々でしたが、つくづく日本人が長寿であることに納得がいきました。食べる物の多様さ、味の淡白さ、量の少なさ、それが欧米の人たちと比べるとメタボが少ない要因のように思いました(ただし、アシアナ航空の機内食は、日本食と同じようだと感じました)。

明日は、ハンガリーの旅の様子をお伝えします。
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# by eastwatery | 2010-06-01 22:50  

ヨーロッパ旅行 その3

第4日目には、午前8時30分にザルツブルグを発ち、ヨーロッパ有数の美しい街ウィーンを訪れました。ここでは、約3時間で、世界遺産・ウィーン歴史地区観光をしました。

その場所とは、ハプスブルグ家が、フランスのベルサイユ宮殿を凌駕せんとして建てた夏の離宮と呼ばれる、世界遺産のシェーンブルン宮殿です。ベルサイユ宮殿も以前訪れていますが、この宮殿より、もう少し小さかったような気がします。中に入ってみると、豪華な部屋やホールもありますが、資金が続かなかったこともあって、ベルサイユ宮殿の鏡の間を模した部屋は、とても本物に及ばないほど貧弱でした。絢爛豪華風にできないのであれば、あまり飾り立てない質素で上品な雰囲気であればいいのに・・・・・と、またまた、ここで人間の卑しさを感じ、長い見学時間も退屈な感じでした。

しかし、広大な裏庭からグロリエッテの建つ丘を望むことは素晴らしかったし、そこかしこに建てられている多数の彫像には驚きました。また、この裏庭から遠くにシュテファン寺院が見える光景は美しいものでした。その他、宮殿構内に作曲家ブルックナーが住んでいた家等もありました。

その後、バスからの光景としては、懐かしい映画「第三の男」の舞台になった所なども見ることができ、そこにはまだ映画に登場した観覧車もそのまま動いているとのことでした。いかにも、一つ一つの物を大切にするヨーロッパの国々だと感心しました。
今回の旅行では8組の熟年カップルがいるので、「第三の男」という映画名を聞いた時に、熟年世代からは「はぁー」と感嘆する声が漏れました。

また、今は美術館とされているベルヴェデーレへ行く予定もあったのですが、ここは時間の関係で訪れることはできませんでした。この日は、グループの中でちょっとした事件がありました。
グループの中の二人の連れが、とてつもなく広いシェーンブルン宮殿で迷ってしまって、集合時間を過ぎても正門の集合場所に来られず、大騒ぎになりました。心やさしき添乗員さんが、あちこち走りまわっても、駄目でした。しかし、やっと30分後に二人がその場所に帰ってこられました。しかし、今度は、添乗員さんが2回目の彼女たちを探すために再び宮殿に入っておられ、携帯電話でやっと連絡が取れ、このドタバタ事件は一件落着ということになりました。

このことから、いかに自分勝手な行動が多くの人に迷惑になるか、また団体行動の時には平常の感覚や行動以上に自分をコントロールする自律心が必要だと思いました。しかし、これだけ心配をして駆け回った添乗員さんは、表情一つ変えることなく、この日の最後までにこやかに皆さんのお世話をして下さいました。彼女はまだ30代の前半だと思われますが、人間として、またプロの添乗員として優れた能力と人間力のある方であり、ますます彼女を尊敬し、信頼感が増しました。

 ウィーンでは2連泊ができるので、気分的にはリラックスできました。さらにホテル(NHダヌーブシティ)は一流ホテルで、その設備を初めとして、全て満足のいくものでした。このホテルはヨーロッパはもとより南アメリカ等にも多くのチェーンホテルを持っており、フロントの対応もこれまでのホテルよりホスピタリティを心得て、笑顔も良く気持ちのいい接客態度でした。

これまで、一度も料理について書いていないので、明日は料理を中心として書いていきたいと思います。
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# by eastwatery | 2010-05-25 23:19