湯﨑広島県知事の育休を応援

10月22日付中国新聞によると、湯﨑知事の育児休暇取得に関して、関係各課に当日までに125件の県民の意見が寄せられているとのこと。その賛否を集計すると約8割強が批判的な内容だということです。

平成11年には男女共同参画基本法が交付・施行されました。その一部では、「子育てや介護を初めとした家庭生活について男女が共に役割を果たす事ができる社会」を目標としています。

しかし、本基本法施行後11年後の現在、日本社会が、そのような社会になりつつあるとは思えません。批判的意見の中には、「環境や法の整備が必要」など様々な意見があったとのこと。もちろん、そのことも重要ですが、一番に人々に求められることは、基本法を受け入れることができる意識の改革だと考えます。

「環境」というのは男性が育休取得をし夫婦で育児ができることだと、私は理解しています。。つまり、湯﨑知事自らが、1日数時間でも1カ月育休取得をし、その範を示す事で育休取得をしたい人たちや職場など、周囲の人々が育休を取りやすくするような意識改革を行う環境を作ることができる、と私は考えています。

最近、父親が多忙のため、母親一人が育児に関わり精神的に疲弊している例が多く問題になっています。その中には、事件となって大きくマスコミに取り上げられるものもあります。
少子化対策をとしての法整備だけでなく、いかに夫婦で育児に関わるかを考え、その対策を取ることが必要であり、それが環境整備だとも考えます。

そういう意味でも、批判されながらも知事が勇気をもって育休取得を実行されている事を精一杯応援したいと思うし、一人も多くの人が知事の支援者に回ってほしいと願っています。
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# by eastwatery | 2010-10-29 21:16  

信州への旅

10月24日から26日の3日間、2泊3日信州への旅をしてきました。
今回の旅は、48年前の新婚旅行で行った上高地に再び訪れるということが第一の目的。
これまでに何度も、かの地に行きたいと思いながらも、行けなかったので、再来年の金婚式
を前倒しして、思いきって実行しました。

訪れた場所は、上高地、乗鞍スカイライン、駒ケ岳のロープウエイが主でした。
どんな旅でも、国内でも国外でも、雨と言われながらも、常に天候に恵まれて「晴れ男、晴れ女」と豪語していた私たち夫婦でしたが、今回は2・3日目は雨天となってしましました。
しかし、2日目の上高地では、雨がほとんど降らず大正池から河童橋までの1時間、紅葉した木々の美しさをゆっくりと楽しみながら、歩くことができました。乗鞍や駒ケ岳でも雨が降りましたが、バスの車窓から見る様々な木々の紅葉に、感動しながら広島では見ることのできないスケールの大きな景色を見ることができたのは、幸いでした。

もう一つ良かったのは、豪華なリゾートホテルでの2連泊でした。私たちの部屋は4人用の部屋で広く、その上、テラスには露天風呂があり、暗い中での誰にも邪魔されない露店風呂も粋なものでした。 また、1日目の料理は、和食の料理屋さんでの松茸付きの様々な秋の膳、2日目はフランスでコンテストに入賞し、メダルを授与されたシェフによるフランス料理でした。フランス料理は「目で楽しみ、味で感嘆する」と言われていますが、まさにそうでした。

広島⇔大阪までは新幹線、大阪⇔松本はSAでの休憩も含めて約5時間の旅でしたが、ガイドさん、添乗員さん、共に旅した40人の人々も皆さん、やさしく楽しい人ばかりでした。ほとんどが熟年カップルなので、それなりにゆっくりと時間がとってあり、秋の景色を満喫できた旅でした。これからも、二人が元気なうちに、少しずつ2泊3日程度の旅をしてみたいと思わせる貴重な旅となりました
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# by eastwatery | 2010-10-29 21:00  

母の思い出

父は1941年8月6日、広島市内で被爆死しました。私たちは、当時広島市郊外に疎開しておりました。

原爆投下後1カ月間、母は「子どもたちのために生きていてほしい!それがダメでも、夫の遺体だけでも見つける」という一心で広島市内に出かけましたが、父の遺骨はみつからないままです。その日以後の母の生活は、祖母と4人の子どもたちを抱えて生き地獄のようなものだったと思います。 

今、思えば、母はそういう人生をどう受け止めていたのか。過酷な人生を恨むでもなく、小さな八百屋さんを商い、店を閉めた後も夜中まで仕立物の内職をして必死に子ども達を育ててくれました。不思議なことに母は、どんなに苦しい時でも「原爆を落としたアメリカが憎い!」などと言ったことは一度もありませんでした。夕食の団欒では、いつも一人ひとりの子どもの楽しかった話や出来事を嬉しそうに聴き「子どもがみんな良い子だからお母さんは嬉しい」と言ってくれていました。

母がそのように強く生きて、私たちを育ててくれたのは、父と母が深い愛情で結ばれていたからだ、ということが分かりました。私が成人したある日、母が話してくれたこと・・・「お父さんと一緒に暮したのは10年だったけど、お母さんは、お父さんから一生分愛してもらったと思っている。子ども達を寝かしつけた後、お父さんと二人で夜遅くまで話したことを時々思い出すの」と嬉しそうに話してくれました。これが、後の私の理想の夫婦像となったのです。

私が結婚する時「お父さんは、子どもが生まれる度に、それぞれの子どもへの願いを込めて絵を描いていたの。これは、あなたが生まれた時に描いて下さったもの」といって表装をした若い娘の日本画を嫁入りの荷物に入れてくれました。この話を母から聴いて以来、この絵を見るたびに、おぼろげにしか覚えていない父からの深い愛情を感じています。同時に、親が子どもに残してやれるもの、言葉、もの、絵などが、子どもに対して生きる力を与えるのだ、と励まされています。
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# by eastwatery | 2010-10-20 14:12  

思い出~ニュージーランドへの旅~

2005年、私たち夫婦は、28年ぶりにニュージーランド(以後NZ)を訪れました。旅行期間は4/19~5/9の20日間。この旅は、以前からずっと願っていたことで、共に旅した弟夫婦の定年を待って実現した夢でした。1975年~1977年、夫が駐在員としてオークランドへ赴任し、夫婦で2年間居住していました。

その間には、夫の会社のスタッフやその家族との交流、他方では、私が英語学校でお世話になった先生やクラスメイト等との交流によって、彼らと私たちの間には太い絆がありました。また、この28年間、NZからは家族ぐるみで我が家へ宿泊したり、毎年クリスマスカードの交換をするなど旧交を温め、いつかはNZで再会したいという夢を持っていました。したがって、今回の旅の第一目的は、私たちの人生の何ページにもNZ生活の楽しい思い出を残して下さった彼らと出会い、語り合うこと、亡くなった親友の自宅に伺い哀悼の気持ちと感謝を伝えることでした。第二の目的は、初めてNZを訪れる弟夫婦に素晴らしいNZの各所を案内し、その楽しい体験をエネルギーに変えて共に高齢期を元気に生きていきたい、ということでした。

 関西空港を発って、NZでの第1日目はオークランド市内をバスで観光し、2~4日目は、夫が勤務していた会社や数人の友人宅を訪れました。その後、親友だった男性の自宅へ伺って、長年私たちの訪問を待っていてくれた天国の彼に感謝の気持ちを伝えました。対面で彼に会えなかった事は今回の旅で一番残念なことでした。5日目には、クライストチャーチへ。NZの4月は初秋です。春であれば、様々な品種のバラを見たり、素敵な個人の庭園ツアーもできるのですが、今回は無理でした。しかし、ここでは私達だけの単独の旅なので、大聖堂や、ハーグレイ公園、ブロードフィールドなどの庭園ツアーもゆっくり回ることができました。これ以後は、スケジュールの都合に合わせて、時にはレンタカー、時には観光バスを使いながら、宿泊はホテル、時にはキッチン付きのモーテルを利用するなど、その時々の都合で決めるという旅をしました。

 6日目には、クライストチャーチを発ち、観光バスでクイーンズタウンに到着。その間には牧羊犬の像や、湖と空の青との対照が美しいレンガ造りの小さな「テカポ湖の教会」を訪れました。以後、まるで絵のような道路沿いの紅葉の木々を満喫しながらマウントクックへ向かいました。ここでは、抜けるような青空に真っ白な雪を頂いたマウントクックに心奪われ、次の目的地のクイーンズタウンへ向かいました。 7日目、クイーンズタウンからは、ミルフォードサウンド行きの観光バスに乗り、テアナウを経て、鏡のような景色を映すミラー湖、観光船に乗って峡谷を見ながらの船旅をしました。当日は雨天のお蔭で山頂から流れ落ちる長く荘厳な感じの滝を何本も見ることができ、大満足でクイーンズタウンに帰りました。
 8日目~11日目の旅では、レンタカーでの4人旅となりました。まずゴンドラで展望台まで行き、湖を囲む美しい街並みを眺めた後、黄金の銀杏並木が続く道程を走りました。その後も広大な草原が広がった風景を見つつ、インバーカーギルを経由してダニーデンでの市内観光後、クライストチャーチに帰りました。途中、道に迷ってデイリーのお店で道を尋ねたり、そこの店主から大きなソフトクリームをプレゼントされる等、ハプニングの楽しさも経験しました。

 12日目~16日目は、ブレンハイムからピクトンまで念願だった列車に乗った後フェリーで首都ウェリントンにまで短い船旅をしました。列車やフェリー内には、子どもたちが退屈しないようなに遊戯場が整備されており、人を大切にするNZの人たちの心の豊かさを感じました。ウェリントンからはレンタカーで一路、ロトルアへ行き、日本風の露天風呂に入浴したり、レインボースプリングスを散策する等、緩やかなスケジュールで動きました。コロマンデル半島で1泊後は、赤い小さな電車でシダの森を通り抜け、まるで古代の森に来たようでした。17日目~20日目までは、NZの会社の人たちが私たちのために歓迎パーティに集まってくださったり、クラスメート数人とも旧交を温めました。どの方とも、お互いに過ぎた時を感じながらも全く28年前と変わらぬ会話ができて「生きている幸せ」を感じながら帰国の途に着きました。

 このたび、5年前の旅の思い出をかいてみて、ニュージーランドでは、これくらいの字数では書き切れない程の思い出をいっぱいもらった幸せを感じ、改めて旅の素晴らしさを発見しました。
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# by eastwatery | 2010-10-09 19:36  

せせらぎ公園でのウォーキング

6月から早朝ウォーキングを始めて4カ月余りになります。我が家から歩いて10分足らずの所に古川という川があり、その川沿いにいろいろな樹木が茂っているのが「せせらぎ公園」です。四季折々に季節の花を咲いていたり、鳥類としては鴨、カワセミ(滅多に出会いません)、ツグミの一群、あとはスズメや鳩などがいます。

2ヶ月前からは、鳥類に加えて、捨てられたらしい中型の灰色の鯉等もいます。「捨てられたらしい」というのは、初めから人懐っこいことから、そう感じています。
しかし、この鯉はどうやら目が見えにくいようで、口先の所にちょうど良いようにパンを投げてやらないと,食べることができないのです。初めは私のスキルが追いついていかず、ずいぶん他の小さな魚に与えることになってしまいました。今は、食べる鯉も、与える私も上手になってうまくいくようになりました。

この鯉については、日によっていろいろ楽しませてもらっています。最近は、私たちが鯉にパンくずをやっているのを見て、他にニ組の夫婦が加わり、同じように餌をやってくださっているので当初の頃と比べると、ずいぶんふっくらしてきました。面白ことに、私どもが早起きして5時半ごろに行くと、まだ草陰で休んでいるので、「おーい!来たよ、おいで」と言うと急いで泳いできます。そして、投げてやったパンくずをパクパクと食べます。

ところが、他の人が私たちより早く行った時には、かなりお腹も一杯のようで、形だけ食べて草陰の方へ帰っていきます。そういう日は、鳩やスズメに残ったパンくずを捲いてやると、時々餌の取り合いをしながらも、仲良く食べています。

4か月もたつと、ウォーキング友達ができました。人間だけでなく散歩中の犬たちとも仲良くなりました。夫婦連れで歩いている人は全体の3割くらい、男性一人が5割くらい、後の2割が女性一人の人たちです。いつものメンバーの姿一人でもいないと、ちょっと淋しい感じです。

大部分の夫婦連れは夫が少し前を歩き、そのちょっと後を妻がついていく、というのが多いのですが、我が家の場合、どうしても私の足が速く、私が前で夫が後ろという形が定着した頃でした。一人ウォーキングの男性から「多くの人は旦那さんが前で奥さんが後ろなのだけど、お宅は反対ですね」とほほ笑みながら、声をかけられました。

私も夫もそのことについて、ちっとも気にしていないので、そういえばそうだと思い、その男性が言われたことに対して、「あっ、そうか」という感じで受け取っていました。ところが、ある日のこと、その男性がすれ違う時に突然、私の横に来て「奥さん、先日はいらないことを言ってしまって失礼しました」と言われました。私も「いいえ、何も気にしていないので、大丈夫ですよ」と答えたところ、ポケットから小さな包みを出して私に差し出されました。 「これは小鰯をさばいて、刺身をつくる時、この小さな道具を使うと簡単に出来ますよ」と言って、ご自分が作られた小さな道具をプレゼントして下さいました。 驚きました。

彼だけでなく、毎日顔を合わす人たちとは、お互いに「おはようございます!」と言って声をかわしているので、なんとなく親しくなっている気分でしたが、そのように気を遣ってくださる人がいることに感動しました。
もう一つの楽しみは、いろいろな犬たちとの出会いです。大体、同じ時刻に出会う犬たちは決まっているのですが、さすがは頭のいい犬たちです。今では、私たち夫婦のことが、遠くからでもわかるのか、30mくらいの近さになると尻尾を振って私たちをめがけて走ってきます。また、別の犬は、出会うなりべったりと私にひっついて甘えてくれます。大の犬好きでありながら、自分たちの年齢を考えて犬を飼わなくなって久しく、他家の犬であっても、毎日喜びや楽しさを与えてくれる犬たちに感謝です。

こうして、私の仕事の都合で、朝早く自宅を出なければいけない時や雨の時以外は、ウォーキングを欠かすことなく続けています。いつまで続くか分かりませんが、寒くなれば早朝ではなく夕方から歩こうと思っていま。その時には、また、新たなウォーキング仲間ができるかもしれません。
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# by eastwatery | 2010-10-07 20:41  

妻を失うということ

NHKの「クローズアップ現代」は、その時々の社会状況の問題を取り上げて月曜日~金曜日の午後7時半から30分放送されています。

10月4日(月)には「男 ひとり残されて」が放送されました。以前から男性が配偶者を失うと、妻死亡後:3年で亡くなる、夫死亡後:15年で亡くなる、とデータでも示されていましたが、このたびこの番組をみても、感じることが多くありました。

妻に先立たれ、一人で生きていくことになった男性たち。その深い悲しみと日常生活が立ち行かなくなる様子を綴った手記が、最近相次いで出版されています。また、配偶者を失った人たちに対する最近の調査では、女性よりも男性の方が立ち直りに時間がかかり、死亡率も高まるという実態が明らかになってきているそうです。
毎日の食事をはじめ、健康管理や金銭管理もままならない男性たち。そうした遺族を支えようと支援を始めた医療機関や団体もありますが、その数はまだ極めて少なく、体制も不十分ということです。番組では、数人の妻を失った体験者の日々や言葉を伝えると共に、妻をガンで看取った後のつらい体験を著した垣添忠生さん(医者)をゲストに迎えて、“悲嘆のケア”はどうあるべきかを考える、という内容でした。
妻を失った後の最初の3か月というのは本当にひどい生活だった、と番組登場の全員が語っていました。数十年も共に生きてきた妻、伴侶を失ったということは、手足をもぎ取られたとか、あるいは半身を失ったような感じで、本当に精神も肉体もボロボロになって、酒びたりの、本当にひどい生活になってしまったとのこと。
これまでは、家に帰って、他愛ない話をしていたが、妻を失ってからは、夜、話し相手がいない、その相手がいないというのが本当につらかったということ。
結局、細かな事実を数十年間積み重ねてきたわけであり、それを顧みる相手、あるいはそういうことを話す相手がいないと、これも本当につらいということなのです。

「生きていてもしょうがない」という感じがあって、自死するような観念も時々頭をよぎりるものの、なかなかそれもできない状況・・・・・。どうやって生きていこうかと考えながら、現実問題としては、本当につらい毎日で、もう夜も眠れないし、食事とってもおいしくないし、酒もおいしいという感覚はなく、酔えないけれども酔うために飲み続けるといった、様子に、自分がこんなところまで落ち込むのかと思うくらい、ひどい状態だったそうです。

ある男性は、妻死亡後1年半たった今も、就寝時に睡眠導入剤を飲まなければ寝付かれない
ということ。また、別の男性は、夜半に目覚め、妻の事を思うと眠れなくなる、「あの時ああしてやればよかった、こう言ってやればよかった」と号泣する人もいました。
結局、テレビなんか見る気もしないし、新聞も大きい見出ししか読めないということ。つまり、関心がずいぶん減ってしまった。ここまで妻を失った男性が落ち込むとは、私は考えていませんでした。

この番組で一番私の心に響き、辛い思いをしたのは、次のような言葉でした。
本当に小さいことですが、例えば、外へ出ようとするときに、妻の靴がぽろっと、出てきたり、ちょっと引き出し開けたときに、ブラウスだとかショールだとか、見慣れた妻の愛してた遺品が出てくると、それを見て涙が出てくるというようなことで、自分が1人でいるときは本当に何度も泣いたというお話。

私も夫を失うというのではなく、新婚1か月後に夫がミャンマー(ビルマ)へ4カ月余り長期出張をしたことがあり、妻を失った人と同じような辛さと淋しさを感じました。
夫のYシャツをいつも部屋にかけていたのですが、それを見たり、また、夫が日頃使っていたものを見た時など、どっと涙が出たのでした。

では、妻を失った夫たちは、こういう状態がず~っと続いたのでしょうか? 登場した人たちの大分部は、そうでもありませんでした。しかし、立ち直る期間は人それぞれのようでした。ある人は、妻の死亡後、3か月、6か月、こういう状態が続いた後、、だんだんとこんな酒浸りな生活をしてちゃいけない、自分の生活見直して、少し体のトレーニングをしたり、食事もちゃんとしなければいけない、と思って規則正しく生活するようになったとの事。

それからがん検診も含めて、健康のチェックをするとか、そういうことで少しずつ前向きになっていって、6か月から9か月くらいたつと、どん底まで落ち込んでいったのが、上向きになっていったということでした。そして、体調がよくなっていくと、精神の具合もよくなっていって、ずいぶん前向きに物事に取り組むようになったということでした。また、現役の人は、仕事に没頭することによって、日中は苦しみは一瞬でも、忘れることができたということもあったそうです。

これらの話を聞いて、私が考えていた以上に、男性が妻を失った時のショック、辛さ、淋しさは深いものがあるのだと思いました。私の夫はこの番組は見ないといい、ゴルフの番組を見ていました。、私は番組終了後、あまりにも辛い内容なので、夫にこの番組の内容を告げることはできませんでした。しかし、さすがに気になっていたのか、朝のウォーキングの時に「昨夜のTVはどうだった?」と尋ねました。
私は概要をちょっと話しすることにとどめましたが、夫もそれ以上の話を求めることはしませんでした。

大阪には葬儀会社が主宰をして遺族会と名付け、月1回、お互いの体験を語り合う会を設けているということです。自分の思いを打ち明けることで、共感してもらったり、人の話を聴くことで、自分を客観的に見ることができるようになって、心が落ち着いてくるということがあるそうです。
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# by eastwatery | 2010-10-06 19:49  

マザー・テレサ映画祭

1か月近くご無沙汰をしてしまいました。
私の愛するパソコンが入院をしていて、やっと我が家へ帰ってきました。どうしてもブログに書きたいことがあって、この日を待っていました。映画を観て、すぐに書いたので、1か月前の原稿です。

マザー・テレサの生誕100年記念として日本各地で映画祭が開催されました。広島市でもキリスト教カトリック信者の人たちが「マザー・テレサ映画祭広島」を立ち上げ、8月21~9月3日まで「マザー・テレサとその世界」、「マザー・テレサの祈り 生命それは愛」、「母なるひとの言葉」、「マザー・テレサと生きる」、「マザー・テレサの遺言」など全部で10本近いドキュメンタリー映画が上映されました。私は上記のうち、最後から2本を観ました。

マザー・テレサは1984年秋来日、広島も訪問されました。その時に遺された言葉は次の通りです。

“愛せるようになるには、祈ることです。神さまが、わたしたちを愛して下さっていることに感謝して、いただいた愛を他の方に分けましょう。それは、ほほえむだけでいいのです。そう、にっこりほほえみましょう。お年寄りも独りぼっちでわびしい人たち、皆にのけ者にされている人、絶望している人、・・・・・そういう人たちに、ほほえみをかけられるように、そして皆さんが持っているものを分け与えられますように・・・・。”

この言葉どおり、マザー・テレサが忙しいスケジュールの中で一番に訪れたのは、釜が崎、山谷などホームレスの人たちが住んでいる町でした。映像でも、マザー・テレサは、路傍で寝転んでいる人、かがみ見込んでいる人に目を留め、一言言葉を掛けて通っていました。
マザー・テレサが離日するときに、私達日本人に遺された、もうひとつの言葉を忘れることができません。

“日本は、経済的には豊かな国かもしれません。しかし、とても淋しい国という印象を受けました。人と人とのつながりがなく、淋しい思いをしている人たちが多いのです。”(マザー・テレサの言葉を私流に受け取って書いているので、正確ではありませんが、そのように仰ったと記憶しています)。
実際に、マザー・デレサに会った人たちは、それぞれにこのように言っています。
「自分の全てを犠牲にして、他人のために尽くし、また、そうすることが当り前だと思っている方でした」、「はじめて会ったときには、“怖い”と思いました。でも、それは思った以上に身体が大きく、威厳が合ったので、そう感じたのでしょう。それは第一印象だけで、共にミサを受けたときにはその温かく優しい人柄に触れ、大きな感銘を受けました。」

マザー・テレサが広島を訪問され、原爆資料館で原爆投下地点のパノラマの前に立たれたときに心痛な顔をし「ご説明をお聴きする前にお祈りさせて下さい」と申し出があったとのこと。十字を切って、深いお祈りをし、それから静かに説明を聞かれたとのことでした。
その後、慰霊碑の前に来られた時、説明の前にマザー・テレサからのお願いがありました。
「犠牲者の皆様に冷たいお水を捧げたいので、お水を用意してくださいますか」と。
毎年、8月6日は照りつけるような暑さですが、その日も同じでした。マザー・テレサは、火傷した人々が一滴の水でも渇望したことを想像されたのでしょう。用意した水を酌で
慰霊碑に献水され、静かに慰霊碑にお祈りをされたとのことでした。

広島市の職員でその日、通訳としてマザー・テレサへの案内をしたFさんは、「国賓、公賓など多くのVIPを慰霊碑に案内したが、このようなことは一度も経験していない」、と言い、「マザー・テレサが苦しんでいる人の心が分かり、苦しみや共有される敬虔な心をもっておられることを実感し、マザー・テレサの深い愛と慈しみの心を一生忘れることができない」と語っておられました。

映画においても、随所にそのような生き方をされているマザー・テレサの姿が取り上げられていました。マザー・テレサは「どんな時も天国へ召される時には一人にしてはいけない。人々に囲まれ、その人たちの微笑と愛を受けて旅立つことが大切です」と言い、
インドの貧民街で、瀕死の人をホームに運び込み、その人が幸せのうちに旅立つようにみんなで見送っておられました。

現在の日本人の生き方と高齢者の人たちの現況を考えるとき、マザー・テレサの「慈しみと愛の心を忘れてはいけないと思います。一番、短い言葉で一番重く、大切な」言葉をマザー・テレサは私たちに残して下さっています。それは・・・・

「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」
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# by eastwatery | 2010-09-27 20:26  

原爆投下後65年目の広島」で考えること(最終回)

多くの被爆者や被爆により家族を失った遺族の人たちは、「アメリカが広島に原爆を落としたことは許せない!」と言い「ルース駐日米国大使は8月6日、広島平和記念式典に出席したが、何のメッセージも残さず広島を去ったのは許せない!」と言います。

ルース大使の広島訪問は今回が2回目であり、米国大使が8月6日に広島を訪問するのは初めてでした。ルース大使は公の場では、「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」と語りました。このことについて、私は第2次世界大戦終結65周年において、ルース大使は、あのような戦いを再び繰り返さないという決意を新たにした、と思っています。

 その一方で、まだまだアメリカ人の多くは「広島・長崎に原爆を投下したことが、戦争の終結につながった。あれ以上の被害を日本に残さなかったのだから、アメリカの判断は正しかった」と言います。そういう日米の状況の中で、ルース大使が原爆慰霊碑に花束を捧げたり、個人的なコメントあるいはメッセージを出す事は、かなり難しいと思っています。しかし、現在、日本は、核兵器のない世界というオバマ大統領の構想を推進する目標を共有しているという事実もあるのです。このことについて、特に、秋葉広島市長はマスコミにおいてもこの構想を支持していることを強調しています。

ここで、「平和」を考えた時、まず、過去を取り消す事は出来ないが、何時までも過去にこだわらず、未来のことを前向きに考えていかなければ、いつまでも「平和」は訪れない、と私は考えています。私の母が、「アメリカが憎い! アメリカが原爆を落としたことにより、自分や子どもたちの運命が、いかに悲惨なものであったか、それを思うと許せない」ということを一言も私たち子どもに言わなかったことは、私が人間を性善説に捉える元になっているという意味で、母に感謝しています。
日米の関係について、もう一つお伝えしたいことがあります。

過日、平和学習を教えていらっしゃるTさんに、私が原爆関係の新聞記事をお送りした中に、本川小学校の児童の絵をアメリカへ送った記事がありました。8月1日~8日くらいまで本川小学校の原爆資料館(被爆しながらも残った校舎の一部)で、これらの絵の展示があったので、私は8月6日に見に行ってきました(同級生の絵が何枚かありました)。
その前日、これらの絵について、私が小学校1年生の時に担任であった山際先生が、これらの絵がアメリカに送られ、その後再び日本に送り返された経緯を地元のテレビ報道番組で話されました。その内容は次の通りでした。

「これらの絵が、明るく、子どもらしく、そしてしっかりと描かれている、ということに対してアメリカの関係者は感動し、これらの絵が傷まないように長年にわたって大事に保管してくださっていました。このたび、原爆投下後65年ということもあって、アメリカ側から日本の(当時の)子どもたちに絵を返還したいという連絡があって、今年の1月ころに送られてきたということでした。」

ここで、テレビ局のレポーターから山際先生に次のような質問がされました。
「原爆の被害を受けた子どもたちが、第二次大戦後、数年しか経っていないにも関わらず、
なぜ、あのような明るく、楽しい絵が描けたのか」というこでした。

先生は、この質問に対して以下のように答えられました。

「この絵が描かれたのは、昭和25年ですが、その頃アメリカからは子どもたちへミルクやクレヨン、色鉛筆等が送られていました。そのことに対して、子どもたちはとても喜び、感謝をしていました。このような状況の中、学校では、ミルク等を送ってくださるアメリカの人たちへ「ありがとう」の気持ちを込めて、小学校2年生~6年生までの子どもたちが絵を描いて送ろうということになりました。したがって、子どもたちにとっては、「アメリカが原爆を落とした憎い国」、というイメージではなく、「自分たちにいろいろプレゼントしてくれた親切で素晴らしい国」というイメージがあり、感謝の気持ちを込めて子どもたちはこれらの絵を描いていたようです。」

現在、広島の被爆者の中の多くは「アメリカを許せない」という人が多いようです。
同様に、日米開戦の始まりとなったアメリカにおいては「パールハーバーを忘れるな」という人たちも多くいます。しかし、過去の出来事は、それ以前の状態に戻らないわけですから、いつまでも憎しみをもってお互いの国を見たり、考えるのではなく、(非常に難しいことですが)「許す心」をもって、人々が話し合い、理解し合って全世界の平和への道をどう造り上げていくか、を考える時期に来ている、と考えます。

2007年の原爆記念式典で私が感激した事がありました。
それは、男女の小学生が述べた「平和への誓い」でした。「私たちは、62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません」から始まり、「しかし、原子爆弾によって失われなかったものがあります。それは希望です」と、未来への夢へつなげています。「平和な世界をつくるためには『憎しみ』や『悲しみ』の連鎖を、自分のところで立ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを『知ること』が大切です」と、グローバルな視点から世界の人々がお互いを理解し、手をつなぐことの大切さを提唱していました。そして、最後に「ヒロシマを『遠い昔の話』にはしません。(略)世界中の人々の心を『平和の灯火』でつなぐことを誓います」と意思表明をしっかりとしていました。

もちろん、この文章をこの二人の小学生だけで書いたとは思いませんが、とても大きな観点からと寛い心、平和への強い決意が表わされており、これからの時代を生きていく彼らに「希望」を見出すことができました。また、二人の小学生の態度は、まっすぐに正面を向いて、姿勢を正し、はっきりとした口調で誓いを述べました。

 こうしたことから、8月6日か9日のどちらかの日に全国の学校で平和に関する授業をしてほしいと思いました。今では、広島・長崎以外の人たちでは、もはや、これらの地で62年前に起こったことに対して、無関心・無知で、何の日かも知らない人が多いのです。日本の国が平和な状態を保ち続けていくためにも、平和憲法の第9条は、何があっても護り続けていくことが必要だと思いました。

このシリーズ5回「原爆投下後65年目の広島で考えること」を読んでいただき、ありがとうございました。
少し長いブログを書いてしまいましたが、これに懲りずにこれからもよろしくお願いいたします。
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# by eastwatery | 2010-08-31 09:49  

原爆投下後65年目の広島」で考えること(4)

昭和22年には、元の広島市中心街にある元の自宅に戻りましたが、爆心地から、すぐ近くだったため家は跡形もなかったのです。ゼロの状態から、母がまた新たに家を建てるのは、どれだけ大変だったことか、幼い私は知る由もありませんでした。
私が通学したのは、原爆ドームの対岸にある広島市立本川小学校でした。当時は、身内で被爆で失った人も多く、みんなが似たりよったりの生活をしていたので貧しい生活であることを、それほど惨めにも思っていませんでした。
母は途中で原爆症の1種である紫斑が体に出る時期があったり、働きすぎて抵抗力がなくなり敗血症になったこともありました。そういうことがありながらも、母は子どもが全員結婚するまで一人で生活をしていました。
その後、原爆投下時、母の背に負われていた弟が結婚後は、母が92歳で亡くなるまでの30数年間、夫婦で母と共に住んでくれたおかげで、母にとっては、幸せな日々を過ごす事ができました。弟が幼い時に母に約束していた家を建て、母用に1部屋があり、母は、孫たちとの生活を楽しく過ごす事もできました。

今思い思い返してみると、なぜ、あれほどの苦しい生活の中で我が家だけでなく、多くの人々が、明るくたくましく生きることができたのか、と考える時、「戦争という最悪のことは終わった。死に怯える生活をしなくても良いのだ。これからは、すばらしい日本にするのだ」という希望があったからではないか、と思います。

次回は、今夏の8月6日に考えたことを書いていきたいと思います。
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# by eastwatery | 2010-08-31 09:42  

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(3)

昨年、8月6日から1週間後位の時仕事から帰宅するため、徒歩で広島市役所の前を歩いていて、市役所の入り口近くで、木がこんもりと茂っている一角に慰霊碑があることに気づきました。これまで、何度も通った道なのに、そこに慰霊碑があることには気づいていませんでした。よく観ると、この慰霊碑は市役所に勤務中、被爆死した人たちを祀っている慰霊碑でした。そこには、塔婆と、まだ最近活けられたらしい花が花挿しにたくさん活けられていました。また、その横に、大きなガラスのコップにたっぷりときれいな水が供えられていました。私は、そのコップを見たとき、はっとしました。8月6日の原爆記念日の後、多分、その日にお参りできなかった人が,遅ればせながら、花と水を供えたのでしょう。

「なみなみと注がれたコップの水」には深く,哀しい意味があるのです。多数の被爆死した人たちがあちこちで死に際に「ミズ、ミズ、ミズをください」といって事切れたという話は、広島ではよく語られています。原爆投下後、「原爆にあった人に水をあげたら、早く死ぬ」という流言蜚語が流されたので、死にかけた人が「頼むから水をください」といっても、その人に水をあげなかった、自分が歩くのが精一杯で水をあげる余裕がなかった、などということがありました。 そのようなことで、被爆した人に水をあげられなかった人が生き延びた後、特に原爆の日には「どうして自分はあの人に水をあげなかったのだろう」と自分自身を責める人が多いということです。これはとても辛いことです。

私の父も未だに遺骨も分かりませんが、息子が小学生のときに前述の話をして以来、息子は大学生になって家を出るまでは「おじいちゃんにタップリの水をあげる」といって自分の役割として、毎日水を供えていました。一般的には仏教では、お仏飯とお茶を供えるのですが、我が家はお仏飯とお水なのです。父がこの水を飲んで、カラカラであった喉を潤しているだろうか、時々思う時があります。そう思う日々を送っているせいか、市役所の慰霊碑に供えてある「なみなみと注がれたコップの水」を目にしたときには、涙が出そうになりました。私と同じような思いを持った人がこの水を供えたのだと思うと、いまさらながら、どれだけ多くの人がそのような思いをもって生きているのだろうか、と思いました。今年は特に暑かったので、氷を入れてお仏前に備えています。

ある時、テレビで「はだしのゲン」を最後まで観ました。それ以前は、このドラマをどうしても観ることが出来なかったのです。理由は、このドラマを見ていると、私たち家族の体験と同様のことが描かれており、辛くなってしまうからでした。
しかし、あるシーンでは、ゲン一家が原爆のために父親やきょうだいだけでなく、何もかも失って友人一家のところにしばらく居候をする立場になったとき、その家の姑がアレコレと苦情をいい、いじめる場面がありました。私の家族も父が被爆死する前から、遠類を頼って広島市中心街の自宅から郊外に引越ししました。私は当時2~3歳だったので、よく憶えていませんが、後から姉や母から聴いたところよると、その遠類から相当のイジメを受けたらしいのです。何もかも不自由で、これからの日本はどうなっていくのか不安もあって、みんなの心がいら立っていたのだと思います。

しかし、父が被爆死後、また別の遠類が快く私たち家族を快く受け入れてくれ、倉庫を私たちが住むようにしてくださったので、1年くらいそこにいました。その間は父が残してくれた(疎開するときに持っていった)骨董品や母の着物を売ったり、母が他所の農家の手伝いをして、少しばかりお米や野菜をいただいて生活していました。だから、毎日の食事は「だいこんご飯」が主で、ご飯といえるほどのものではなくびしょびしょのご飯でした。こういう状態は長い間続きました。おかずといえば、こんにゃくを茹で、味噌をつけて食べるだけ、というような食事でしたが、栄養失調にもならず、元気だったのは、今でも不思議です。
 
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# by eastwatery | 2010-08-30 08:28