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原爆投下後65年目の広島」で考えること(最終回)

多くの被爆者や被爆により家族を失った遺族の人たちは、「アメリカが広島に原爆を落としたことは許せない!」と言い「ルース駐日米国大使は8月6日、広島平和記念式典に出席したが、何のメッセージも残さず広島を去ったのは許せない!」と言います。

ルース大使の広島訪問は今回が2回目であり、米国大使が8月6日に広島を訪問するのは初めてでした。ルース大使は公の場では、「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」と語りました。このことについて、私は第2次世界大戦終結65周年において、ルース大使は、あのような戦いを再び繰り返さないという決意を新たにした、と思っています。

 その一方で、まだまだアメリカ人の多くは「広島・長崎に原爆を投下したことが、戦争の終結につながった。あれ以上の被害を日本に残さなかったのだから、アメリカの判断は正しかった」と言います。そういう日米の状況の中で、ルース大使が原爆慰霊碑に花束を捧げたり、個人的なコメントあるいはメッセージを出す事は、かなり難しいと思っています。しかし、現在、日本は、核兵器のない世界というオバマ大統領の構想を推進する目標を共有しているという事実もあるのです。このことについて、特に、秋葉広島市長はマスコミにおいてもこの構想を支持していることを強調しています。

ここで、「平和」を考えた時、まず、過去を取り消す事は出来ないが、何時までも過去にこだわらず、未来のことを前向きに考えていかなければ、いつまでも「平和」は訪れない、と私は考えています。私の母が、「アメリカが憎い! アメリカが原爆を落としたことにより、自分や子どもたちの運命が、いかに悲惨なものであったか、それを思うと許せない」ということを一言も私たち子どもに言わなかったことは、私が人間を性善説に捉える元になっているという意味で、母に感謝しています。
日米の関係について、もう一つお伝えしたいことがあります。

過日、平和学習を教えていらっしゃるTさんに、私が原爆関係の新聞記事をお送りした中に、本川小学校の児童の絵をアメリカへ送った記事がありました。8月1日~8日くらいまで本川小学校の原爆資料館(被爆しながらも残った校舎の一部)で、これらの絵の展示があったので、私は8月6日に見に行ってきました(同級生の絵が何枚かありました)。
その前日、これらの絵について、私が小学校1年生の時に担任であった山際先生が、これらの絵がアメリカに送られ、その後再び日本に送り返された経緯を地元のテレビ報道番組で話されました。その内容は次の通りでした。

「これらの絵が、明るく、子どもらしく、そしてしっかりと描かれている、ということに対してアメリカの関係者は感動し、これらの絵が傷まないように長年にわたって大事に保管してくださっていました。このたび、原爆投下後65年ということもあって、アメリカ側から日本の(当時の)子どもたちに絵を返還したいという連絡があって、今年の1月ころに送られてきたということでした。」

ここで、テレビ局のレポーターから山際先生に次のような質問がされました。
「原爆の被害を受けた子どもたちが、第二次大戦後、数年しか経っていないにも関わらず、
なぜ、あのような明るく、楽しい絵が描けたのか」というこでした。

先生は、この質問に対して以下のように答えられました。

「この絵が描かれたのは、昭和25年ですが、その頃アメリカからは子どもたちへミルクやクレヨン、色鉛筆等が送られていました。そのことに対して、子どもたちはとても喜び、感謝をしていました。このような状況の中、学校では、ミルク等を送ってくださるアメリカの人たちへ「ありがとう」の気持ちを込めて、小学校2年生~6年生までの子どもたちが絵を描いて送ろうということになりました。したがって、子どもたちにとっては、「アメリカが原爆を落とした憎い国」、というイメージではなく、「自分たちにいろいろプレゼントしてくれた親切で素晴らしい国」というイメージがあり、感謝の気持ちを込めて子どもたちはこれらの絵を描いていたようです。」

現在、広島の被爆者の中の多くは「アメリカを許せない」という人が多いようです。
同様に、日米開戦の始まりとなったアメリカにおいては「パールハーバーを忘れるな」という人たちも多くいます。しかし、過去の出来事は、それ以前の状態に戻らないわけですから、いつまでも憎しみをもってお互いの国を見たり、考えるのではなく、(非常に難しいことですが)「許す心」をもって、人々が話し合い、理解し合って全世界の平和への道をどう造り上げていくか、を考える時期に来ている、と考えます。

2007年の原爆記念式典で私が感激した事がありました。
それは、男女の小学生が述べた「平和への誓い」でした。「私たちは、62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません」から始まり、「しかし、原子爆弾によって失われなかったものがあります。それは希望です」と、未来への夢へつなげています。「平和な世界をつくるためには『憎しみ』や『悲しみ』の連鎖を、自分のところで立ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを『知ること』が大切です」と、グローバルな視点から世界の人々がお互いを理解し、手をつなぐことの大切さを提唱していました。そして、最後に「ヒロシマを『遠い昔の話』にはしません。(略)世界中の人々の心を『平和の灯火』でつなぐことを誓います」と意思表明をしっかりとしていました。

もちろん、この文章をこの二人の小学生だけで書いたとは思いませんが、とても大きな観点からと寛い心、平和への強い決意が表わされており、これからの時代を生きていく彼らに「希望」を見出すことができました。また、二人の小学生の態度は、まっすぐに正面を向いて、姿勢を正し、はっきりとした口調で誓いを述べました。

 こうしたことから、8月6日か9日のどちらかの日に全国の学校で平和に関する授業をしてほしいと思いました。今では、広島・長崎以外の人たちでは、もはや、これらの地で62年前に起こったことに対して、無関心・無知で、何の日かも知らない人が多いのです。日本の国が平和な状態を保ち続けていくためにも、平和憲法の第9条は、何があっても護り続けていくことが必要だと思いました。

このシリーズ5回「原爆投下後65年目の広島で考えること」を読んでいただき、ありがとうございました。
少し長いブログを書いてしまいましたが、これに懲りずにこれからもよろしくお願いいたします。
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by eastwatery | 2010-08-31 09:49  

原爆投下後65年目の広島」で考えること(4)

昭和22年には、元の広島市中心街にある元の自宅に戻りましたが、爆心地から、すぐ近くだったため家は跡形もなかったのです。ゼロの状態から、母がまた新たに家を建てるのは、どれだけ大変だったことか、幼い私は知る由もありませんでした。
私が通学したのは、原爆ドームの対岸にある広島市立本川小学校でした。当時は、身内で被爆で失った人も多く、みんなが似たりよったりの生活をしていたので貧しい生活であることを、それほど惨めにも思っていませんでした。
母は途中で原爆症の1種である紫斑が体に出る時期があったり、働きすぎて抵抗力がなくなり敗血症になったこともありました。そういうことがありながらも、母は子どもが全員結婚するまで一人で生活をしていました。
その後、原爆投下時、母の背に負われていた弟が結婚後は、母が92歳で亡くなるまでの30数年間、夫婦で母と共に住んでくれたおかげで、母にとっては、幸せな日々を過ごす事ができました。弟が幼い時に母に約束していた家を建て、母用に1部屋があり、母は、孫たちとの生活を楽しく過ごす事もできました。

今思い思い返してみると、なぜ、あれほどの苦しい生活の中で我が家だけでなく、多くの人々が、明るくたくましく生きることができたのか、と考える時、「戦争という最悪のことは終わった。死に怯える生活をしなくても良いのだ。これからは、すばらしい日本にするのだ」という希望があったからではないか、と思います。

次回は、今夏の8月6日に考えたことを書いていきたいと思います。
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by eastwatery | 2010-08-31 09:42  

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(3)

昨年、8月6日から1週間後位の時仕事から帰宅するため、徒歩で広島市役所の前を歩いていて、市役所の入り口近くで、木がこんもりと茂っている一角に慰霊碑があることに気づきました。これまで、何度も通った道なのに、そこに慰霊碑があることには気づいていませんでした。よく観ると、この慰霊碑は市役所に勤務中、被爆死した人たちを祀っている慰霊碑でした。そこには、塔婆と、まだ最近活けられたらしい花が花挿しにたくさん活けられていました。また、その横に、大きなガラスのコップにたっぷりときれいな水が供えられていました。私は、そのコップを見たとき、はっとしました。8月6日の原爆記念日の後、多分、その日にお参りできなかった人が,遅ればせながら、花と水を供えたのでしょう。

「なみなみと注がれたコップの水」には深く,哀しい意味があるのです。多数の被爆死した人たちがあちこちで死に際に「ミズ、ミズ、ミズをください」といって事切れたという話は、広島ではよく語られています。原爆投下後、「原爆にあった人に水をあげたら、早く死ぬ」という流言蜚語が流されたので、死にかけた人が「頼むから水をください」といっても、その人に水をあげなかった、自分が歩くのが精一杯で水をあげる余裕がなかった、などということがありました。 そのようなことで、被爆した人に水をあげられなかった人が生き延びた後、特に原爆の日には「どうして自分はあの人に水をあげなかったのだろう」と自分自身を責める人が多いということです。これはとても辛いことです。

私の父も未だに遺骨も分かりませんが、息子が小学生のときに前述の話をして以来、息子は大学生になって家を出るまでは「おじいちゃんにタップリの水をあげる」といって自分の役割として、毎日水を供えていました。一般的には仏教では、お仏飯とお茶を供えるのですが、我が家はお仏飯とお水なのです。父がこの水を飲んで、カラカラであった喉を潤しているだろうか、時々思う時があります。そう思う日々を送っているせいか、市役所の慰霊碑に供えてある「なみなみと注がれたコップの水」を目にしたときには、涙が出そうになりました。私と同じような思いを持った人がこの水を供えたのだと思うと、いまさらながら、どれだけ多くの人がそのような思いをもって生きているのだろうか、と思いました。今年は特に暑かったので、氷を入れてお仏前に備えています。

ある時、テレビで「はだしのゲン」を最後まで観ました。それ以前は、このドラマをどうしても観ることが出来なかったのです。理由は、このドラマを見ていると、私たち家族の体験と同様のことが描かれており、辛くなってしまうからでした。
しかし、あるシーンでは、ゲン一家が原爆のために父親やきょうだいだけでなく、何もかも失って友人一家のところにしばらく居候をする立場になったとき、その家の姑がアレコレと苦情をいい、いじめる場面がありました。私の家族も父が被爆死する前から、遠類を頼って広島市中心街の自宅から郊外に引越ししました。私は当時2~3歳だったので、よく憶えていませんが、後から姉や母から聴いたところよると、その遠類から相当のイジメを受けたらしいのです。何もかも不自由で、これからの日本はどうなっていくのか不安もあって、みんなの心がいら立っていたのだと思います。

しかし、父が被爆死後、また別の遠類が快く私たち家族を快く受け入れてくれ、倉庫を私たちが住むようにしてくださったので、1年くらいそこにいました。その間は父が残してくれた(疎開するときに持っていった)骨董品や母の着物を売ったり、母が他所の農家の手伝いをして、少しばかりお米や野菜をいただいて生活していました。だから、毎日の食事は「だいこんご飯」が主で、ご飯といえるほどのものではなくびしょびしょのご飯でした。こういう状態は長い間続きました。おかずといえば、こんにゃくを茹で、味噌をつけて食べるだけ、というような食事でしたが、栄養失調にもならず、元気だったのは、今でも不思議です。
 
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by eastwatery | 2010-08-30 08:28  

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(2)


このような私たち子どもの話を母は、どんな気持ちで聴いていたのだろうと、今になって思います。不思議なことに、母は、どんなに苦しい時でも「原爆を落としたアメリカが憎い!」などと言ったことは、一度もありません。夕食の団欒では、いつも一人一人の子どもの、楽しかった話や出来事を嬉しそうに聴いていてくれました。小さなお店での商いだったので、店を閉めた後も、母は仕立物の内職をして生計立てていました。

しかし、豪農の長女として何不自由なく育った母、結婚後も手広く商業デザインの仕事をしていた父の妻としてゆったりと幸せな生活を送っていた母にとっては、生活の激変の中で生きていくことは並大抵のことではなかったと思います。しかし、愚痴をこぼすこともなく、「あなたたち子どもがいるから、なんとかやっていけるのだ」、「参観日に行っても、どの子も良い子だと先生が言われるので嬉しい」といつも私たちに言ってくれていました。

母がそのように強く生きて私たちを育ててくれたのには、父と母が深い愛情で結ばれていたからだということが、私が成人した時に母が話してくれた話から分かりました。
母は父との結婚生活について、「お父さんと一緒に暮したのは、10年だったけど、お母さんはお父さんに10年の間に一生分愛してもらったと思っているの。4人の子どもを寝かしつけた後、お父さんと二人で夜遅くまで話したことを時々思い出すの」と幸せそうに話してくれました。

母は、広島に原爆が投下される前日の8月5日も家の整理などで自宅へ行き、その日は泊る予定にしていました。しかし、父が「もし、何かがあって夫婦二人が死んでしまったら、子どもたちは、みなし子になってしまう。大変だと思うが、頼むから疎開先へ帰ってほしい」と言ったそうです。そのおかげで、私たち4人の子どもは、原爆孤児になることもなく、今の生活があると思うと、父の愛情を改めて深く感じるところです。

ここで、もう一つお伝えしたいことがあります。

私が結婚するとき、母は「お父さんは、子どもが生まれる度に、その子その子への願いを込めて絵を描いていたの。この絵は、あなたが生まれた時に描いて下さったものだから、東の家にもって行きなさい」といって、一幅の表装をした日本画を差し出しました。

そこに描かれていたのは、平安時代の「おすべらかしの髪」の若い女性でした。それまで、私が父の愛情を受けたと感じたのは、父が(前述の)防空壕へ抱えて降ろしてくれたことや、夕食の団欒で母が話してくれる父親しか頭の中にはありませんでした。

しかし、この話を母から聞いて以来、和室の床の間の父の絵を見ながら、人というのは生きていなくても、その人が自分のために残してくれたものから、十分に愛情を感じることができるのだと、親の思いの有難さ、大切さに思いを寄せるようになりました。それは同時に「親は、子どもに何を残してやればいいのか」ということ、言葉、もの、文章などいろいろありますが、それらが子どもに対してどんな時にも「生きる力」を与えることになる、と思うようになりました。

そして、このことは私が息子が誕生以来、彼に関するエッセイを書くことにつながっています。
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by eastwatery | 2010-08-23 10:08  

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(1)

広島の8月6日を書こうと思いつつ、延び延びになっていました。それを後押ししてくださったのは、私の体験を若い世代に語る重要性を説いてくださった「とんちゃん」でした。
そして・・・・65回目の8月6日を迎えた今年の「私の8月6日」をやっと書く気になりました。


8月6日は、私の父の祥月命日です。毎年、朝5時起きをして車で30分のところにある
父のお墓参りに行きました。
私が3歳の時、父は広島市内で被爆死し、65年たった今も未だに遺骨は見つかってい
ません。いつものように、恐らく父の遺骨は平和公園の中にある行方不明者のため大きな
墓の中に、多数の被爆死した人と共に葬られているのだと思い、一束の花と線香をもって
お参りしました。
夜には慰霊のための「灯篭流し」の行事に行き、父へのメッセージを書いて流しました。
今年のメッセージは「お父さん、私たちは元気で幸せに暮らしています。安心してくだ
さい。9年前にお父さんの許に行ったお母さんと共に見守っていてください」と書きました。
多くの人がこのような内容を灯篭に書いて、死者へのメッセージを込めて元安川へ流すのです。
 元安川は、原爆投下当時、全身に火傷をした人たちが、暑さに耐えきれなくて飛び込み、
やがて、そのまま死んでしまった多くの死体が多く流れた原爆ドームの前を流れている川です。

私は父のことは、ほとんど憶えていません。唯一憶えていることは、空襲警報がなり、
父に横抱きに抱えられて2階から降り、防空壕に連れて行ってもらったこと、そして、そ
こで「おじや」(雑炊のようなもの)を食べたことです。抱えて防空壕まで連れいってもら
ったのが、果たして父なのか、どうかは分かりませんが、他のきょうだいからの話を合わ
せて、私を防空壕に連れて行ってくれたのは、父だと私は信じています。父の顔を見た記
憶はないのですが、抱えられたところからの階段の風景は、今でも鮮明に記憶の中に残っ
ています。

当時、母(38歳)と10歳、5歳3歳、2歳の4人の子ども、そして、祖母(父方)は
広島市以外に疎開していました。父(50歳)は兵隊ではなく、軍属として広島市内で軍の
仕事をしていました。 父は、8月6日には仕事の関係で市内の中心部にいたと思われま
すが、特定の場所はわかりません。当日、母は2歳の弟を背負って、父に会うために
疎開先から市の中心部へ向かう途中、中心部から約2km離れた位置で被爆しました。
母は、たまたま建物の影となる位置にいたので、背に負っていた弟ともども火傷もなく
無傷でした。

その頃、私と姉たちは、町の中心部から離れた疎開先で、原爆爆発後の雲を見たり、焼
けた新聞紙や綿・布の切れ端などが飛んでくるのを、何の危険も感じず、拾っていました。
母は、当日は、疎開先に帰ってくることができず、ずっと父を捜し歩いていたようでした。
家族は、爆弾が何か、何が起こったかもわからず、母の帰宅をずっと待ち続けました。 
翌日、母は、爆発後に降った雨や噴煙にまみれて顔中黒くなって、無事帰ってきた
母に私たち子どもは、皆で「おかあ~ちゃん」といって抱きついて号泣しました。

その後も、母は弟を背負って約1ヶ月間、毎日父を探すために、疎開先からで市内まで
出かけました。なかなか父に出会うことはできず、結局、父や父に関するものは何も
見つけ出すことはできませんでした。母は、あれでも父が自宅へ帰宅しているかも知れ
ないと思い、相生橋(原爆ドームの近くの橋)から300メートルくらいの所の自宅へも
行ったそうですが、父にも会えず、遺骨の一つもを見つけることもできませんでした。
隣家のおじさんなどは、黒こげになり、背丈も半分くらいになっていて、悲惨だった、
と後年母から聞かされました。父だと知るためには、至る所にある被爆死した人たちの
口を開け、歯並びなどを調べたとのことでした。普通の状態であれば、死体に触るなど
気分的に出来ないはずですが、母は、とにかく「父に会いたい。子どもたちのために
生きていてほしい!、それがダメであれば、父の遺体を見つける」というだけの一心で、
1ヶ月間広島市内に出かけた、と言いました。

8月6日以後の、戦後の母の生活は生き地獄のようなものでした。姑(私の祖母)と4人の
子どもとたちを抱えて、一人で家計を支えて行くことは並大抵ではありませんでした。
もちろん、私たち子どもも中学から新聞や牛乳配達等のアルバイトをし、母と共に
貧しくても逞しく生きてきました。夕食の団欒の時に「もしかしたら、お父ちゃんは生きて
いるかもしれないけど、記憶喪失になっていて、どこかで生きとってかもしれんね。
そして、記憶がはっきりしたら、家へ帰ってきてかもしれんね。」と、よく話していました。
私は無邪気にその話を信じていましたが、私より年長の姉などは、それがかなわない事
だと思っていたのか、時々涙していました。

長いので、今日はここまでとします。
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by eastwatery | 2010-08-17 22:02  

就職・再就職講座変革期に生きる」~その2~

またまた、ご無沙汰してしまいました

7月18日以来、またまたご無沙汰をしてしまいました。「交流分析士2級」の研修を5月から受講していたのですが、その試験(約3時間)が8月1日に実施され、ちょっと受験勉強と仕事に時間を取られ、ブログを書く余裕がありませんでした。
今日は、前回に引き続き、第4回目就職・再就職講座の4回目の前半を書いていきたいと思います。前半では、キャリアプランを作成するために、これまでに学習し、自身を振り返ったことも含めて、「自分を知る~今できること、やりたいことは?」をテーマとして1.5時間の講座をしました。

「正しい自己理解」をするためには6項目ありますが、長くなるので、これらをまとめて表すと “正しい自己理解+適切豊富な情報=正しい意思決定が可能・・・・このことは明確なキャリア目標 ⇒ 意識強化 ⇒ 行動変容 ということになります。ただし、行動変容に至るまでには、時間がかかりますが、時々自分の生き方にジレンマを抱いていた人の場合は、講座を受講することによって、ピタリと自分の悩んでいた部分に気づき、突然意識が強化されて行動変容に行く人もいます。

つまり、意識強化とは「その目標に向かう意識が強くなってくる」ということであり、その次の行動変容とは「意識が変化した後、行動が変わるということ」です。実際に講座を受講することで、これまで自分が固執していた自分の「仕事観」について疑問を持ち、受講しつつ自分を見つめるうちに仕事観が変わって、「就職できた」という人が何人もいます。

「自己を知る」ためには、チェックシートをして自己分析をして今まで見えなかったことを発見することができます。そのために、まず大切なことは「イメージ力」を鍛えることです。例えば「5年後、10年後に、どんな自分になっていたいか?」ということ。目標や夢が実現できるかどうかは、「イメージ力」にかかっているのです。将来を具体的に描くことができれば、それに向かってやるべきことがはっきりするので、夢に早く近づくことができます。

要するに、①将来を具体的に描く⇒明確なキャリア目標に向かう【時間管理の必要性】、
②これまでの人生で経験したことは「全てキャリア」⇒適切で明確な情報【情報の整理】、
③「生きること」は「毎日選ぶこと」の連続⇒個人の「価値観」が重要【自分の価値観で選ぶ】ということです。

そこで「自己を知る」=「自分に適した職業を探るには、どうすればいいか」ということを基としてチェックシートをしてもらいました。これに関しては様々なチェックシートがありますが、今回は受講者の属性、講義時間等を考慮して次のシートをしてみました。①自分の強み、弱み、②好きで上手を探ってみる、③あなたのアピールポイントは?、④興味・関心のある仕事・職業、⑤働き方のスタイルを選ぶ、をしつつ、間で、各グループごとに4名くらいで気づいたことを受講生同士で話し合う時間を取りました。

その後、「仕事を考える」を3段階に分けて(資格の取得、情報の収集、重要なこと)について講義をしました。特に、女性の再就職に関しては、資格の学習からスタートするのではなく、結婚、育児、介護などで中断してしまった「自分のキャリア」を、どのように繋げるかを、じっくり考えることが、重要となります。

前半の1.5時間で、これらの事をし、後半の1.5時間では「私の決意・アクションプラン~キャリアプランニングで今日から実行」をテーマに各々がシート「私のアクションプラン~なりたい自分(キャリアゴール)に向かって~」に10年後の自分の目標とするイメージを7項目にわたって記入してもらい、最後に質問を二つ。
Q1)この宣言をした今、10年後のあなたに、どんな言葉をかけてあげたいですか?
Q2)10年後のあなたからは、どんな言葉がもどってくるでしょうか?

このような形式のシートに記入後、一人3分を目安に受講生皆の前で自分のアクションプランの発表をしてもらいました。その堂々とした発表や、その後の受講生の反応、コメントについては、次回にします。 今日も長いブログになってしまい、申し訳ありません。
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by eastwatery | 2010-08-03 22:24