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堤 友彦さんの歌

昨日のブログの最後に書いた堤 友彦さんの「差し出すこの手のむこうには」を皆さんにご紹介します。

あなたのように うまく伝えられないけど   ぼくのように あなたも伝えられない
一人で 生きれるようにって 君は言うけど
人は 一人では 生きていけない
ぼくは あなたと 生きることを 考えたい
ぼくは みんなと 生きることしかできないから
だめかなあ?って聞く僕に 大丈夫って 聞こえてくる
差し出すこの手のむこうには 信じる人が きっといる
信じる人が きっといる

あなたのように うまくあらわせないけど   ぼくのように あなたもあらわせない
現実は 厳しいんだって 君は いうけど   にげだす事なんてできない
ぼくは ぼくらしく 生きることを 考えたい
ぼくは ぼくらしく 生きることしか できないから
ダメかなあ?って聞く僕に 大丈夫って 聞こえてくる
差し出すこの手の むこうには 信じる人が きっといる
信じる人が きっといる

この詩には、お母様のコメントがついています。

「手探りでやってきた音楽活動も、今、付き合ってくれる人たちに力を借りながら頑張っています。 何度練習しても超えられない障害の壁。“それは、周りの役目だと思う”といってくれる仲間の声に、勇気をもらって“共に生きるすばらしさ”を伝えたい」

友彦さんは、これまで家族はもちろんのこと、同級生や周りの人々からも愛されながら32歳の人生を歩んでこられました。人は、この世に誕生して以来、親や周りの人たちから無条件に受け入れられ、愛されることによって、「基本的信頼感」が生じると言われています。

この「基本的信頼感」は、生きていく根っことなる部分となって、人の人生を支え続けていく事になるのです。人は長い生涯の中でさまざまなストレスに出会います。このような時に、生涯を通してどの時期においても、複数の重要な他者(両親、きょうだい、友人、先生など)がいて、これらの人々が、その人の人生を支えることになるということです。

友彦さんの人生は、誕生以来愛されながらも、1歳3カ月の事故以後、彼にとっては大きなストレスと向き合う日々が続いたであろうことは、想像に難くない事です。しかし、昨日のように常に穏やかな笑顔で語りかけ、歌う友彦さんの生き方を見るとき、上述の歌のように彼の傍には、常に「信じる人」の存在があるということです。
だからこそ、「僕は、ぼくらしくしか生きることしかできないから」とはっきりと言えるのです。
そこには、「あきらめるのではなく、ありのままの自分を受け入れて生きる」という覚悟があり、そう言い切ることの爽やかさがあります。

昨日は、時々弱い心が現れて、前向きな考え方ができない私に、友彦さんから「勇気と前向きに生きる強さ」をいただきました。
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by eastwatery | 2010-04-25 21:12  

メンター講座修了生主催のオープンハウス


広島の空も今日はやっと晴れ、暖かな春の日差しが気持ちの良い1日でした。
今日は、天気だけでなく、心が温かくなるような出来事がありました。

それは・・・・・・・あるイベントにより私だけでなく、参加者みんなの心が春風以上に爽やかで、温かくなったのです。

私が、2月末まで広島県再チャレンジ学習支援協議会に勤務していたことは、ブログを訪れて下さっている皆さんはご存知と思います
実は、今日のイベントは、その協議会で実施した「メンター養成講座」(福山市)の修了生たちが、開催した第2回のオープンハウスで行われたのです。

イベント会場は修了生のリーダーであるKさんの家が会場となっており、これがまた、建築後50年近くたっているかと思われるようなお庭付きの懐かしい民家です。一歩、邸宅内に入ると、そこ、かしこに春の花々が植えられており、そこでお茶を飲むようにもなっています。部屋は、大きな2つの部屋のふすまをはずして通しになっており、そこには趣のある品々が飾られたり、庭の花々が陶器の花瓶などに品よく活けられており、Kさんのセンスの素晴らしさにうっとり。
昼食は、全て手作りのタケノコご飯やおうどん、おでん、あえもの、お漬物など木製のお盆にしつらえてあり、薄味の上品なランチでした。
これらの一つ一つだけでも心温かくなるものでしたが、それ以上に二つのイベントが開催されたことで、さらに心打たれると共に勇気をいただきました。

初めに、路上詩人のピノコさんの実体験のお話。長年のうつ病で生きる希望を失い、何度も死のうと思ったり、泣いてばかりいた自分が「動けば変わる」という体験談を話されました。彼女が立ち直った言葉は、彼女が誰も見ていないだろうと思いながら、書いていたマガジンに対して「読んでいるよ」と書いてくださった、彼女が恩人と仰いでいる「てんつくマン」さんの一言だったとのこと。自分の事をちゃんと見守ってくれている人がいる、と感じたことにより「自分から動けば変わる」ということに気づかれたのです。

それ以後、ピノコさんは、てんつくさんのグループに入り、今ではカンボジアの子どもたちのために、いろいろな活動をしたり、路上詩人として色紙や和紙に詩を書くなどして、自分らしく生きていらっしゃいます。

次には、チャリティミニコンサートをして下さった全盲のミュージシャンの堤友彦さん(32歳)のコンサートでした。堤さんはシンガーソングライターでキーボードによる弾き語りをし、その歌は、彼自身が作詞・作曲されたものです。今では、あちこちでミニコンサートを開催していらっしゃいます。今日は、彼のお母様がオカリナ、お父様がギターで彼のキーボードと合奏をし、司会はお母様でした。
お母様の話によると、友彦さんは、1歳3カ月の時に出窓から落ち、左脳の脳みそが大部分溶けたようになり、医者からは、命があったことが不思議だと言われるくらいの大怪我だったそうです。これまでに8回の頭の手術をし、現在の後遺症は、全盲、右手右足のマヒ等ですが、その歌は、テノールの艶のあるきれいな声です。

常に、にこにこと笑顔で話し、歌い、天使のような感じです。彼は上述のような後遺症があるにもかかわらず、小・中・高等学校と普通の公立学校へ通いました。高校入学には、3年かかりましたが、その間、同級生が以下のような歌を作って友彦さんを励ましてくれたそうです。

あの子とは、 ずっと  いっしょに大きくなってきた  
いつも あの子 鼻歌をうたってる  エレクトーンも上手なんだ 
いつも明るく笑ってるんだ  見えなくたって 走れなくたって
一緒が楽しい  一緒が楽しい  これからも  ずっといっしょがいいのに

(以下略)

今まで ずっと 一緒だったんだから  見えなくたって  心で見えてる
一緒があたりまえ  一緒があたりまえ
今まで  ずっと一緒だったんだから  これからも  ずっと一緒なんだから


このところ、バラバラ殺人事件、そして子どもへの虐待死や事故死等がニュースで伝えられることが多く、日本人の心が壊れつつあるのではないか、と怖くなっていました。

でも、友彦さんは、ご両親を初めとしてきょうだい、友人たちに愛され、常に「君がここにいることがすばらしい」という気持ちを皆から伝えられて、常に穏やかな笑顔と語りをされたのです。
私はもちろんですが、多くの参加者が感動して涙していました。
今日は、福山市からの帰途も、「温かな心」をしっかりと家まで持って帰りました。

もう一つ友彦さん作詞「差し出すこの手のむこうは」は、明日ご紹介する事にします。
長い間、読んでくださってありがとうございました。
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by eastwatery | 2010-04-24 21:10  

久しぶりの再会(4月18日)


4月16日には、夫が会社の寮で生活した頃の先輩のご夫妻2組を我が家へご招待をして
昼頃から暗くなるまで3夫婦で話し込み、楽しく豊かな時を過ごしました。

夫は高校卒業後、竹原市で一人暮らしをしている母を残して東洋工業(マツダ)へ勤務していました。その時から母にも生活費を送り、寮で生活していたわけですが、入寮以来、この2名の方々に優しく接していただき、その恩は返しようもないくらいです。

夫と二人で、とにかく3夫婦が元気なうちに我が家へ来ていただいて、昔話をしながら、私の拙いけれど、心のこもった料理を召し上がっていただきたい、とかねてから考えていました。
しかし、私が2年半ほど、仕事に熱中したために、その時間も取れず、そのままになっていたので、やっと(家の片付けも済んで)2組の夫婦を招待することができました。

なにしろ、後輩である夫の年齢が77歳(私68歳)、81歳(妻77歳)、80歳(妻78歳)の夫婦像は、何十年も前であれば、「年寄り」という雰囲気があると思いますが、みなさん、その年齢年齢なりに輝いていらっしゃいました。

しかし、日本の高度成長期を推進してきた、まっただ中の人たちですから、年賀状のやり取りだだけでは知りえない話が、次々と出てきました。

なんと、お二人とも定年後に死を覚悟するほどの病気になったり、大手術をしていらっしゃったのです。一人は心臓へ通じる部分のバイパス手術、もう一人の方も心臓の病にかかり、何種類かの薬が手放せないとのことでした。当日は「3夫婦が元気でいるという、お祝いの会をしよう」ということで集まり、箸も「寿」の入った箸袋を選んだのですが、こうして、重い病から生き返っていらっしゃったのですから、まさに、当日は「お祝いの会」になったのです。

夫は、入社以来、皆さんと写した写真を整理し直して、見ていただくようにしていました。食事を食卓に整えるまでの間、3人の若い時代の思い出が次々と語られ、本当に楽しそうでした。体は80代でも気持ちは20代に戻り、私たち配偶者も一緒になって初めて聞く話を楽しみました。

しかし、さすがに80代、いろいろと考えて作った料理も私が考えた以上に皆さんが食べられる量は限られておりました。せっかくですから、お帰りの時には、折箱に詰めて帰っていただきました。たっぷり、5時間近く語り合った後、今度は、3年後に再び我が家へ来ていただく事を約束しました。

3年後を目標として、健康に気をつけ、再び「寮の同窓会」ができるように元気でいてほしい、と心から思いました。
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by eastwatery | 2010-04-18 17:30  

企業戦士とその家族(4月11日)

仕事から離れて1カ月以上が過ぎました。
毎日とは言わないまでも、時間がある限り、これまで未整理のまま置きっぱなしになっていた書籍、文書、講演の原稿や資料、新聞への投稿文等を分野別に分けてファイルに分けたり、破棄したりしています。時には、過去に書いたものを読みふけったりするので、整理に時間がかかっています。

そういう中で、12年前に書いた短文が出てきて、「そういうこともあったなぁ」と思い、ブログに載せることにしました。以下が、その短文です。


自動車メーカーに勤めていた夫は、早朝から深夜までの勤務に加えて、たびたびの海外出張、ひどい時には韓国までの日帰り出張もありました。時差が10時間以上もあるヨーロッパへ出張して夜半に帰国しても早朝からの出勤。

私は、こういう状況に、夫はとても定年まで元気に勤められるはずがない、と思っていました。私たちには結婚20年目、夫が50歳の時に恵まれた一人息子がいます。彼が自立するまでは親として元気でいてほしいという気持ちはあっても、プロジェクトを組んで仕事をしている夫には、普通の生活は無理な話だし、夫も「仕事にのめり込んでいる」という表現がぴったりでした。

私は息子が小学生になった頃から、「お父さんはね、いつ死んでも仕方がないほどの働き方だから、お母さんは覚悟しているよ」と言っていました。

今、思えば何と重い事を言っていたのだろうと、自分を責める気持にもなります。

そして・・・・息子が小学校3年生の時の夏のある日、夫は定年を元気に迎えることができました。その時、息子が言いました。「お父さん、死なないで良かったね」と。
私も息子も、もちろん夫も、この日の事を忘れないでしょう。


これを読んで、今更ながら私は何と残酷な事を幼い息子に言ってしまったのだろう、と後悔しきりです。自分の不安な思いを、年端もいかない息子に言ってはいけない、という考えが自分自身の中になかったほど、追いつめられていたのだと思いました。
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by eastwatery | 2010-04-11 22:56  

理想の1/2結婚(2010年4月7日)

「男が女を養う」という考え方ではなく「稼ぎも責任も半分ずつ」という対等なパートナーシップで、結婚生活を送りたいという独身男性が増えているという。

しかし、この考え方は、本当であろうか。単なる頭で考えただけのポーズではないだろうか? というのは、私の知人の研究者によると、確かに「家事を分担する」と回答する男性は増えているのは事実ではあるが、実際に(具体的行動として)共働きの妻と家事分担をしているか、ということになれば「ノー」なのである。

「男女共生」を考えるときに、必ず出てくる言葉として「性別役割分担意識」というのがある。男女の関係を対等なものにしていくためには、この意識をまず変え、実行していくことが必要なのである。確かに様々な情報の影響を受け、とりあえず頭の中での意識は変わりつつある。
しかし、それを行動化することができない。つまり、観念的にはわかっていても、具体的に行動するという実践面(自分が関わること)においては、行動できていないのである。したがって、その双方のギャップを埋めていかなければ、本当の意味での意識は変わらないということである。
これは、「なぜ意識は変わらないのか」を明白に表している。また、意識が変わるカギは「父親」、「夫」が日常生活の中で具体的に行動を示しているか、否かが重要ということである。

これとは別に、対等な役割分担ができないという原因は、企業の中で、「性別役割分担」があり、男性の方が長時間労働になりやすいという現実がある。1999年4月より「男女雇用機会均等法」が改正され、雇用での女性差別は一切禁止となった。女性の活用という面では大いに評価されるが、問題は女性が男性と同様に長時間労働時なりやすくなった。「男性を含めた男女共通の労働時間の規制」がなければ、男性の家庭参加は望めず、「女性だけが仕事も家庭も」となり、過労死することになりかねない。

最近の若い女性の間では、このような社会・職場環境から、女性が自立を考えるというより、専業主婦思考が高まっているとのこと。再び、1960年代~80年代までの日本の高度成長時代「男は仕事、女は家庭」に戻ろうとしているのだろうか。この「性別役割分担」が効果的であったのは、あくまで「終身雇用」・「年功序列型賃金」制度が機能していた時代だったからである。

現在のように、デフレスパイラルの中に入ってしまうと、会社の規模に関わらず何時、会社が倒産するか、夫が何時リストラされるか、そうでないにしても何時から給与が極端に下がるか分からないのである。そのように考えると「専業主婦」ができるということは、かなり恵まれている一部の人たちだけなのである。

しかし、キャリアアドバイザー仲間の30代の女性が、「これからは妻も働く必要性がある」という話を同年代の何人かの人にした時、「そういう状況になったら、その時に考える」とか「実家に帰れば何とかなるでしょう」という答えが返ってきたとのこと。これが、本気で答えたのだとしたら、将来の日本、日本の家庭はどうなるのであろうか?
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by eastwatery | 2010-04-07 22:04  

「慈しむ」ということ(2010年4月2日)


今日の広島は、朝から寒い風が吹いていましたが、「さくら便り」では満開宣言がでました。
もう、本格的な春が来たのですね。

雪どけのしずく 一粒こぼれて
君住む遠い町にも 春はもうすぐそこに
重ね合う日々を 慈しむように 季節を歩いていきたい

この詩は、広島の地元紙「中国新聞」に「三瓶山ろく診療所だより」(エッセイ)を5年間にわたって書かれた医師の長坂ひろゆきさん作成の歌詞の一番です。長坂さんは、島根県の片田舎で診療所のお医者さんとして常に患者の立場に立って医療に関わっていらっしゃる日々の出来事をエッセイとして書いていらっしゃった人です。 

最終回では、上記の歌詞に出てくる「いつくしむ」と読む「慈」という漢字について、このように書いておられます。

<「慈」という漢字は、心の上に、小さいものが成長して増える様子を表しているという。冬枯れの寒々とした「心」という大地が再び、生命力を取り戻すことを「慈しむ」という。それは、「命にエネルギーを再び吹き込む事」といってもよいかもしれない。冬ばかりが悪者になっているようだが、そうではない。この冬という季節があるからこそ、枯葉や倒木が栄養となって大地に蓄えられ、冷たい雪は大切な水源となる。
冬こそが春の生命の息吹を生み出すエネルギーの源でもあるわけだ。
「老」いる、「病」む、「死」ぬ、この誰にも避けがたい苦しみを知りつくしてこそ、本当の「生」を享受することができる。とい事実と似ていまいか。>

5年間、長坂ひろゆき先生のエッセイを読んできて、常に弱者の立場に立つ視点と「何事にも、何ものにも対する平等感覚」をもつ内容に毎回心を打たれるものがあり、月2回の、このエッセイを心待ちしていました。

最終回の内容も、冬を悪者にせず、冬が大自然に及ぼす大切な役割を書いておられます。このエッセイに対して、5年の間には多くの励ましや共感の手紙や電話、メールをいただかれたとのこと。そこで、最後に読者への感謝の言葉と共に、この詩の第2番の歌詞が書いてありました。

少しずつでいい やさしい心を 育ててゆけばいい 
涙ももうすぐかわくよ 重ね合う心 
慈しむように 季節を歩いてゆきたい

「重ね合う心」にじ~んとしました。
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by eastwatery | 2010-04-02 19:03