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年収1/2 時代の再就職(8月30日)

現在、野口やよい著『年収1/2 時代の再就職』(2004年)を読んでいます。今日までに全体の2/3くらいまで読んでいます。内容としては、主に女性の再就職を中心として書いてあります。それも文献を参照にした自論やデータを示しながら、過去から現在、それに加えて未来への展望などが書いてあります。それ以外にも著者が実際に約40人に取材した内容も挿入されており、理解しやすくなっています。

DINKS(子どものいない共稼ぎ)、DEWKS(子どものいる共稼ぎ)という言葉は、いまでは多くの人が知っている言葉ですが、この本では、著者が野口さんが名づけた「HIKSカップル」が主役となっています。「HIKSカップル」とは、夫の経済力が弱まって、専業主婦である妻の再就職を必要としている夫婦を名づけたものです。英語で言うと“Half Income with Kids”(子どものいる年収が2分の一になった)夫婦ということです。このように名づけた背景には、野口さんが日本の若い家族の典型は、おそらく、HINKSにより近いと考えたところにあります。

多くの識者が「男性一人が家計を背負うことは、もうできない。妻も夫と共に働く時代だ」といっている、とこの本に書いてありますが、現在紛れもなくこのような傾向は、2004年当時より多くなっていると思います。では、そういう傾向の中で結婚後・出産後仕事をやめた女性たちは、満足をしているか、といえば、多くの女性たちが閉塞感に悩まされ、子どもと夫の面倒をみるだけで一生を終えていいのか、と焦っています。しかし、それだけでなく、主婦が再就職をしようと思ったとき、今ではどうにも経済と切り離せない関係(経済的ファクター)にあるのです。また、妻が働きに出さえすれば、火の車の家計の危機を乗り越えることができるのか、彼女たちの十分な雇用の機会が開かれているのか、ということです。

実際に取材した多くの専業主婦の答は「正社員のままで、結婚・出産後も働き続けていた方が良かったのではないか」ということです。2004年頃からパート労働だけでなく、契約社員、派遣社員がどんどん増えて、どこの会社も正社員の数を少なくしています。男性でも、これらの働き方をする人が増えているのですから、女性には余程の技能・技術があるか、専門職でない限り、一旦切れた正社員登用への道はふさがってしまっています。その上、認定保育所の募集人数は少なく、保育園児の数は主に正社員の子どもであり、それ以外には限られています。

非正社員(契約社員・派遣社員など)の多くは働く期間が決まっている有期間雇用者であって、簡単に職を失いやすいのです。その上、働き方は正社員並みであっても、健康保険、厚生年金もなく、過酷な状況の中で働いているのです。すなわち、「低賃金」、「雇用保障がない」、「出産の権利がない」という3点で女性労働の非正規化が、どんどん進んでいるのです。

つまり、正社員は、コア(核)の社員として、企業にとって本当にかけがえのない人たちだけが正社員の特権を得て、より多くの人たちは雇用保障のない働き方になっているのです。これは、まさに小泉前首相が提唱した「5%のエリートと95%のエリートの手足となって働く人」の世界になってきているのです。このことは、ますます少子高齢化を進めることになり、日本の将来は活力のないものになってしまうのです。それだけでなく、若い世代の生きていく意欲や活力、夢が失われていくのではないかと危惧しています。

安倍首相は、重要な政策の一つとして「再チャレンジ」を挙げています。この中には子育て終了後の専業主婦だった女性が、もう一度仕事を持って家庭生活を営んでいくことができる社会を目指しているのです。この政策は、日本の将来のためにも、この政策に対して本当に真剣に取り組んでほしいと思っています。
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by eastwatery | 2007-08-31 01:21  

格差の広がり(8月29日)

衆議院議員の加藤紘一氏は、「小泉政権が進めた市場原理主義により『医療、労働、福祉、教育』の分野で次々と自由化政策を進めた結果、所得の格差は拡大し、豊かな人でなければ教育や医療を受けられない社会が出現した。構造改革に追いつけない地方経済は疲弊し、他者を思いやり、コミュティを大切にするという文化まで失われる傾向にある」と述べています。

確かに小泉政権の5年間で所得格差、教育格差が進み、人々は将来に向けて焦燥感と不安感をもっています。石川啄木の「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」という心境で、これからの生活に不安を感じている人は多いと思います。
小泉政権の時代に、彼は「日本には、5%のエリートだけいればよい。後の95%はエリートの手足となって働けばよい」と言ったと聞いたことがあります。彼は、祖父、父とも大臣となった裕福な家庭で政治家になるべくして生まれ、育ってきた人です。

そのような人が総理大臣となった時に、数値では測れない他者を理解しようとする想像力がなければ、弱者(すなわち、地方行政、失業者、高齢者、子ども、障碍者など)に対して理解をしようとする姿勢がないのは当然のことでした。そのことをどれだけの人が理解しているのでしょうか? 今日TVの情報番組で「安倍首相の次に望む首相は?」という問いに対して、小泉氏を上げた人が一番多かった、ということが言われていましたが、これだけいろいろな分野に格差が出てしまった政治を行った人に対して批判の気持ちや、選択してしまった後悔はないのでしょうか? ちょっと髪がカールしたロマンスグレー(古い?)で、痩身でおしゃれな服装をする外見だけの人間で、、庶民に分かりやすくても中味のない話をする人間を見抜けないのでしょうか?

もう一つ、気になることがあります。教育格差を拡大する話です。以前にも書きましたが、子どもに付加価値をつけるノウハウを満載した、主に父親対象の子育て情報誌が多種類出版され、結構売れているということです。神戸女学院大学の内田樹教授は、この現象について「親が製造業者で子どもが製品であるという考え」を批判し「子どもの中にあるナチュラルなものに対する畏れとか、敬意は全く感じられません」と疑問を投げかけています。

子育て情報誌は月刊で、それが発売される日には、新聞の1面の下部にかなり大きな紙面をとって、その内容がPRされています。私が永年愛読している『AERA』にも朝日新聞が発行している同じ類の情報誌のPRが大きく出ています。私が、ずっと気になり、「これでいいのか?」と常に疑問に思っていたことを、内田教授は短く的確に述べておられます。この状態が長い間続いていくと、親の財力・経済力により教育格差が出現し、(既に出現している)子どもたちを数値化できる成績だけで評価することになってきます。

「学校化社会」という言葉があります。これは、地域・家庭が学校と同じように機能する社会をいいますが、このような社会では、子どもの純粋な魂は失われてしまい、人を思いやることもせず、ただただ数値を上げていくことを至上とするようになってくるのではないか?と、私は危惧しています。人間は、社会的動物です。だから、一人だけでは生きていけないし、支え合って生きていくことで、数値化できない生活の質(QOL)が上がるのです。そして・・・・一人の人間として生きる力を取り戻すことにつながるのではないでしょうか?
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by eastwatery | 2007-08-29 21:44  

プロフェショナル 仕事流儀(8月28日)

午後4時からのNHK総合「プロフェッショナル 仕事の流儀 『人の中で、人は育つ』~中学教師・鹿嶋真弓~」という番組を観ました。いじめのないクラス作りを進める一人の中学教師が、今、注目を集めています。思春期を迎える生徒たちが、一人の教師との出会いで、自分を発見し、自信を持っていく姿に密着したのが、この番組です。

それは、「エンカウンター」という手法を使って中学教師が、いかに「いじめのないクラスづくり」をしていくか、を2ヶ月間ある3年生(36人)のクラスにカメラを据えて記録をし、先生と生徒の関係、生徒と生徒の関係、クラスの様子を撮影したものです。

鹿嶋先生の目的は、エンカウンターにより①生徒同士のつながりをつくる、 ②自分を信じる、人を信じる  ③人と話すことで人の価値観を学ぶ、を目指してクラスをまとめていくことでした。初めに先生がこのクラスの担任になったとき、受験を控えた中3ということもあり、クラスがばらばらで、クラス全体に人間関係が築かれていませんでした。鹿嶋先生が取った方法は、まず毎日、教室の後ろのドアから入り、一人ひとり生徒の様子をみることでした。

エンカウンターの手法で物事を考えていくにつれ、生徒たちは次のような思いを持つようになりました。
○一人ひとりの価値観や考え方の違いに気づいた
○人の話を聴くことができるのは、楽しい
○人の話を聴くと自分の考えが広がる ・・・・・・・・などなど

生徒たちが、そのように感じると共に、クラスは「まとまりがあって、”いじめなし”のクラス」、「生徒同士で助け合う関係」ができるようになりました。その一方で、鹿嶋先生は、テストのときに一人ひとりの様子をメモして、生徒にテストを返すときには一人ひとりのコメントを入れていきました。このことは、常に「見守る人が居ることによって、生徒を支える」ということになりました。

鹿嶋先生は、「絆が人を変える」という信念を持っているので、クラス委員の男子生徒が「自分がクラスで必要とされる人間か?」と悩んでいるとき、クラス全員に「この人のいいところ、気づいたことを書いてみましょう」と呼びかけました。 絆がしっかりできているクラスの生徒たちは、彼の日頃の行動において、いかに彼がクラスのみんなに必要とされる言動があったかを書き、その結果、クラス委員の男子は、自己肯定ができるようになりました。このように書くと、鹿嶋先生がスムーズにクラスを作り上げたように思えます。

しかし、初めは、あのクラスでは、やっていけないといわれ、人間関係を作るのは大変という不安があったのです。実際に生徒に対してみればその通りで、自分の思いは生徒に伝わらず、何度もトイレで泣いたり、布団の中で泣いたりしたとのこと。その苦しみの中で彼女は自分が生徒たちの苦しみ(苦しさの吐け口として荒れていたのは、どうしていいか苦しみを解決する方法を知らなかったのだ)に気づきました。


やがて、クラスの絆が結ばれ始めたとき、鹿嶋先生に言われる前に生後同士が助け合ったり、教え合ったりするようになっていました。鹿嶋先生は言います。「大人が遠慮して良い場面しか子どもたちに見せていない。悩む自分、ダメな自分をさらけ出し、子どもたちを一人の人間として認め、自分の価値観を語ることがいいのです」と。

そして・・・やがて高校受験の季節がやってきました。クラス内の生徒一人ひとりに焦りが出たり、推薦高校受験に失敗した生徒が出るなどして、クラスの雰囲気は悪くなっていきました。そのとき、鹿嶋先生はエンカウンターの方法をとりました。二人一組になって「絶対あなたは合格するよ」という思いを強くこめてお互いが握手をすることでした。
相手を変えて何回も握手をするうち、生徒の中には涙を浮かべたり、お互いに励ましあったりする風景が見られるようになりました。温かな助け合いのある雰囲気の中で成績を上げていった生徒は、全員が高校受験で合格するとができたのでした。

鹿嶋先生が考える「プロフェッショナル」とは、「情熱 + わざ + 立ち止まることなく常に
研究している現在進行中の人」ということでした。これは企業においても捉えることができる「プロフェッショナル」の定義です。しかし、これを「製品をつくる」ではなく「人を育てる」に例えた時、自分の24時間すべてを「教育」に注ぎ、「教員」として生きているように思えます。いかに「人を育てる」ということが難しく、重要であるか、今日の番組から感じ取りました。
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by eastwatery | 2007-08-28 20:53  

一番美しい日本語は“ありがとう”(8月27日)

今年の夏季高校野球大会では、広島の広陵高等学校が準優勝に輝きました。ほとんど優勝するところまで来た最終回で佐賀北高等学校に逆転され5:4で準優勝となったのです。しかし、そこに至るまでのプロセスは、心を打つ場面が多く、私たち大人が学ぶ点は多かったのです。

確か、準々決勝の時だったと思うのですが、広陵の中井監督は疲労と熱中症のために病院に運ばれ、後は選手に託すことになってしまいました。しかし、その時、キャプテンは「自分たちでがんばりますから、安静にしていてください」といい、みんなで心と体を合わせて準々決勝を勝ち抜きました。その他にも学生たちが自立して自分たちで考えた野球をする場面は多くありました。

今夕の地元のTV局の情報番組が広陵高校を取材したものを放映していました。広陵高校の野球部は「ありがとう」の言葉を常に大事にし、感謝の気持ちを忘れないようにしています。たとえば、怒られても、注意を受けても「すみません」ではなく、「ありがとう」ということです。日頃の生活の中で、すべてのことを感謝の気持ちで受けることを自然の行為としているのです。

日本人は、癖のようになっているのか、よく「ありがとう」の代わりに「すみません」を常用的に使っています。このことは、外国人の側から言えば、「不思議」ということになるのです。やはり感謝の気持ちを伝えるのは、否定的な表現の「すみません」ではなく「ありがとう」が、一番いいのです。

清水英雄さんの「であいありがとう」の詩を紹介しましょう。

ある日であった  あなたから  おしえてもらった  ありがとう

とたんにまわりが  明るくなって  思わず叫んだ  ありがとう

人生って  人間って  すばらしい こんなに  素敵な私って  夢みたい

ある日であった  あなたから  いってもらえた  ありがとう

とたんに自信と勇気が  湧いてきて  思わず叫んだ  ありがとう

人生って  人間って  すばらしい こんなに  素敵な私って  夢みたい

広陵高校の選手たちが、精神的に強く、自分たちで自分たちのことが考えられるのは、こういう
気持ちになって、準決勝までいけたのだと思いました。「ありがとう」の言葉で「自信と勇気」が生まれるのですから、日本語で一番美しい言葉が「ありがとう」というのは、もっともだと思いました。
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by eastwatery | 2007-08-27 20:32  

時代さえも変えるボランティア(8月26日)

ボランティア活動の基本原則は「人々の悩みは生活上の困難、あるいは社会的な問題に、対価を求めず、自ら進んで参加し、始めたことは責任を持って、やり遂げ、社会や人々の、幸せを高めていく活動」と定義されています。平成7年の阪神淡路大震災のとき、日本中に「ほっとけない」の気持ちが広がり、ある人は、物資や義捐金を送りました。私も郵便局を通して義捐金を送った記憶があります。

広島市社会福祉協議会広島市ボランティア情報センター所長の薬真寺さんは、「このように“ほっとけない”という、やむにやまれぬ思いで人が行動を起こすとき、人は、対価を全く考えずにただ助けたい、役に立ちたいという思いで動きます」といっておられます。

現代はお金があれば、たいていのことはでき、お金を払って問題解決をする時代です。そのような風潮が、人と人との結びつきをバラバラにしてしまい、日常生活においては他人に対しての関心が薄い時代ともいえます。しかし、「ほっとけない」という気持ちと、その思いを行動に移すボンランティアは、時代がどうであれ社会と人々の幸せを高めていく活動として不可欠といえるのです。だからこそ、ボランティアは、拝金、無関心の現代を変えていく力があるのです。

また、ボランティアは、時間やお金に余裕がなければできない、というものでもないのです。「居るだけボランティア」という言葉があります。ボランティアを受ける側にある人でもボランティアを行う人々に癒しを与える、そのような交流もあるのです。

私は、かって「してあげる」という思いで始めたボランティア活動で自分自身に与えられるものが大きく、人として成長していくことができました。食事を介助するボランティアをした高齢の女性から自分自身の存在の意味を教えてもらったことがあるのです。彼女は、初めは私に慣れていないので、あまり私に関心を示さず、食事を自らすすんで食べるという感じではありませんでした。ところが、ある時期から彼女は、私が食事を持っていくとニコッと笑って、積極的に食べようと努めてくれました。その頃、子どもに恵まれない私は、いろいろな思いの中で「自分の存在」について悩んでいました。が、私が月に2回特別養護老人ホームへボランティアに行くことを心待ちしてくださる人が居るということで、自分自身を肯定することができたのです。

彼女は話をすることはできない、寝たきりの高齢女性です。しかし、彼女は私に対して「居るだけボランティア」をしてくださったのです。私のボランティア活動は「してあげる」から始まりましたが、次第に「させていただく」ということに変わっていきました。このように考えていくと、どんな環境にある人でもボランティアへの扉は大きく開かれていることが分かります。
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by eastwatery | 2007-08-26 23:38  

感謝の気持ちを表わすということ(8月25日)

1昨日は千葉県で行われた世界競泳大会をテレビで観ました。北島康介選手は、レース前から大きな期待を寄せられプレッシャーも強かったと思います。その上、怪我も完治していない中、それにも負けず期待された成績である2冠を達成したのは、素晴らしいことでした。
しかし、もっと感動したのは、事前は、あまり話題にもなっていなかった高校3年生の入江陵介選手の活躍と金メダルを獲得した時のコメントでした。

泳ぐ前から端正な顔立ちと臆することなくしゃっきっと背筋を伸ばした姿勢がとても爽やかだと感じていました。プールに飛び込んでからの彼は、素晴らしい速さで背泳ぎをしました。そして、2位以下を終始寄せつけず、あっという間に200mを泳ぎきりました。その後のインタビューで「どんな感じですか?」と尋ねられた時彼は、迷わず「皆さんに感謝しています」と言いました。普通であれば「うれしいです。がんばりました」というような言葉が出て、その次に前述のコメントが出ると思うのですが、自分を支えてくれたすべての人への感謝の言葉を、まず言ったのは、なんと謙虚な人だろうと思いました。ましてや彼は17歳。ものすごい泳ぎをして、まだ興奮状態のときに、そういう言葉が出せる彼の人間としての成熟性に感動しました。

今日は、世界陸上大阪で、朝7時からマラソンが行われました。相変わらずの暑い朝で、出発のときで既に30度でした。その天候の中でのマラソンですから、途中でリタイヤーし担架で運ばれる選手も出ました。日本の選手の中では、事前から広島県出身の尾方選手がメダル獲得の有力候補となっていたので、注目をしていました。結果としては、日本人選手の中では最高位の5位でしたが、尾方選手としては不本意の成績だったようです。6位は大崎選手でした。彼は、尾方選手と山梨学院大学の時3歳下の同窓生で、在学中から尾方選手の優しさに助けられて来たことがある、という本人のコメントがアナウンサーから伝えられていました。

すべての結果が出た後、日本選手一人ひとりにインタビュアーがレース後の感想を尋ねたときに大崎選手はこういいました。「尾方さんと一緒に走れてとてもよかったです」。感謝するという言葉はありませんでしたが、「有難う」という気持ちが一杯詰まった答えでした。そういえば、レースの中盤から尾方選手と大崎選手は常に並んだり、前になり、後ろになりながら、最後までほんどんど共に走っていました。レース中のアナウンサーが大崎選手が事前に語った言葉は「尾方さんは、一緒にレースに出るときでも自分も出るにもかかわらず、いつもボクに『がんばれよ!』と励ましてくださるんです」というような内容を伝えていました。そういう言葉を日頃から尾方選手からかけてもらっていたので、今日はただ、一緒に並んで走るだけで彼の力を引き出してくれ、がんばれたのだと思います。

入江選手にしても大崎選手にしても、最初のコメントが自分ががんばった喜びより、人に支え、励ましてもらったことへの感謝の気持ちだったことが、とても印象に残り爽やかな気持ちになりました。
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by eastwatery | 2007-08-25 21:40  

大学の社会貢献(8月24日)

最近、新聞に大学あるいは大学生の社会貢献の記事が多く掲載されるようになって来ました。

今日の中国新聞の朝刊でも、二つの記事が掲載されていました。
一つは、HK大学がパソコンの機材の更新で使わなくなったパソコンを有効活用してもらおうと、17の市立幼稚園に贈ったというものです。市立幼稚園では職員用パソコンが1台配備され数人で使っているのが現状。このたび各幼稚園にパソコンが寄贈され、ある幼稚園園長は「8人の職員で2台しかないので大助かり」と感謝しているという。広島市は赤字財政であり、広島市としてても大いに助かることです。

パソコンの更新は、私が勤めていた大学でも時々行われていましたが、これを業者任せにしないで、有効活用、リサイクルするという考え方が大学側にあったというのは、一挙両得です。更にもう一つの得があります。こうした大学イメージを良くする記事が経済されることによって無料で大学のPRができるということです。そうなると一挙三得ということになります。このHK大学は、その他にも大学がある地域の子どもたちの下校に際して安全指導をしていること、スポーツ推薦で進学した学生が、素晴らしい成績を残していることなども、よく掲載されます。地方の私立大学は今、どこも少子化の影響を受けて生き残りに必死です。

もう一つの生地は、私立のHS大学の学生が、中学生の夏休み学習会で指導役を担っているということです。 ブログ仲間のtiさんは元小学校教師の経験を生かしてボランティアで子どもたちの学習支援を日頃からしておられます。このような取り組みが各地で展開していけば、補習塾に行くため教育費が高くつくということは、なくなるのではないかと思います。

ちょっと話が横道に逸れてしまいましたが、大学生の指導に戻りましょう。大学生が指導に入った中学校は同級生と自習形式で取り組む学習会は、恒例行事として従来から行われていたとのこと。今年は学習会で苦手教科を減らす狙いで始まり、大学生3人が1週間、初参加をして講師に混じって生徒の自習を手伝ったのです。これらの学生たちは、来年に教育実習をする予定の学生を対象にボランティアを募り手を上げた学生なのです。学生のコメントとして「学習が進むうちに生徒たちの受け答えもしっかりしてきた」とやり甲斐を感じているという言うことです。

これも一挙三得の例に入ります。学校側は、教員の負担が少なくなり、学生は来年の教育実習に向けて意欲的になります、もちろん、このような報道は、HS大学の地域貢献とその中学校の学校開放に対する積極的姿勢を世間が評価をすることになります。もう一つ、私なりに気づいた得がもう一つあります。

中学生と年齢が近い大学生に指導してもらうことにより、教師より質問・疑問を出すことができ、自分の考えを気軽に表わすことができます。そのことにより生徒たちの学習に対する意欲が高まるということ、さらに、もう一つは保護者に対する得があるということ。夏休み前に夏休み限定の特別講座が各塾でPRされていましたが、学校の学習会へ参加すれば無料です。こうしてみると、この試みは一挙五得があるということになります。

私の大学の母校でも、学生たちが地域の子育て支援を応援しています。彼女たちは、幼児教育コースの学生ではなく、心理学科の学生ですが、将来、母親にもなり、就職先、進学先のことも考えててボランティア活動から学んでいるのです。この活動についても、大きな写真入で報道されていました。

これは今まで地域に対して公開講座以外は、開放されていなかった大学が、地域・社会に対して目を向けてきたということです。また、学生たちが社会に出る前に、こういう活動をすることは、社会における人間関係を学び、社会や教育の実態などを知る絶好の機会にもなるのです。これからも少子化はますます進み、大学は全入時代に入って、入学生の取り合いになり、特に地方の私立大学は経営が難しくなってきます。

こういう時代は、ある意味大学が社会に目を向け、大学開放して社会貢献をしていくことになり、大学が別の面で発展していくいい機会だと思います。
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by eastwatery | 2007-08-24 11:54  

慰霊碑に供えられた水(8月23日)


今日は、午後から仕事に出かけ、夕方に徒歩で広島市役所の前の歩道を通ってアストラムライン(高速交通)まで歩いて、帰宅しました。その途中、市役所内の歩道の横の木がこんもりと茂っている一角に慰霊碑があるのに気づきました。これまで、何度も通った市役所沿いの道なのに、そこに慰霊碑があることには気づいていませんでした。

よく観ると、この慰霊碑は市役所に勤務していて原爆で被爆死した人たちを祀っている慰霊碑でした。そこには、塔婆と、まだ最近活けられたらしい花が花挿しにたくさん活けられていました。また、その横に、大きなガラスのコップにたっぷりときれいな水が供えられていました。私は、そのコップを見たとき、はっとしました。8月6日の原爆記念日の後、多分、その日にお参りできなかった人が,遅ればせながら、花と水を供えたのでしょう。

「なみなみと注がれたコップの水」には深く,哀しい意味があるのです。多数の被爆死した人たちがあちこちで死に際に「ミズ、ミズ、ミズをください」といって事切れたという話は、広島ではよく語られています。原爆投下後、「原爆にあった人に水をあげたら、早く死ぬ」という流言蜚語が流されたので、死にかけた人が「頼むから水をください」といっても、その人に水を上げなかった、自分が歩くのが精一杯で水を上げる余裕がなかったということがあったのです。また、その話を聞くことにより、多くの人が被爆死した人の様子を知るこにも」なったのです。

しかし、被爆した人に水を上げられなかった人が生き延びた後、特に原爆の日には「どうして自分はあの人に水を上げなかったのだろう」と自分自身を責める人が多いのです。これはとても辛いことだと思います。私の父も被爆死し未だに遺骨も分かりませんが、息子が小学生のときに前述の話をして以来、息子は大学生になって家を出るまでは「おじいちゃんにタップリの水をあげる」といって自分の役割として、毎日水を供えていました。普通は、お仏飯とお茶を供えるのですが、我が家はお仏飯とお水なのです。父がこの水を飲んで、カラカラであった喉を潤しているだろうか、時々思う時があります。

そう思う日々を送っているせいか、今日「なみなみと注がれたコップの水」を目にしたときには、ちょっと涙が出そうになりました。私と同じような思いを持った人がこの水を供えたのだと思うと、いまさらながら、どれだけ多くの人がそのような思いを持って生きているのだろうか、と思いました。
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by eastwatery | 2007-08-23 23:05  

ドレミの法則(8月22日)

「ドレミの法則」があるという。これは元気なる秘訣ということらしいのです。

一つ目は、「人と比較しない」(どんぐりの法則)。たとえば、粘土でどんぐりを作ったとしたら、どれ一つとして同じ物はないのでは?ことほど左様に、人は夫々違ってもいいのではないか、ということです。

二つ目は、「苦労はそもそも、ずっとなくならないことを知ること」(レンコンの法則)。レンコンは、泥の中にあり、穴はいつも浄化された水が流され、天に向かって悠々と美しい花を咲かせます。理不尽な話はどこにもでもある、と思えば、向き合うことができそうだということです。

3つ目は、「自分が愛する前に人から愛されたいと思わないこと」(ミットの法則)。
ピッチャーが投げてくる球は、反対の手でピッチャーに投げ返さないといけないのです。
受けるだけだと痛いからです。

これらを併せて「ドレミの法則」というそうです、これは、今日の朝刊の広場欄に出ていた一文です。

まず、一つ目の「人と比較をしない」ということは、日本では特に重要なことだと思います。ここ数年の間に日本はいろいろな分野で格差社会となりました。その結果、「人と比較する」ことで多くの人々は、「不幸感」を感じるようになっています。幸福の定義は、人によって異なるのですから、人と比較をして自分の幸福感を決めないことが、すなわち幸福感を感じることにつながるのではないでしょうか?たとえば、「今日元気で生きている」。これは「幸福感」を感じる第一歩です。

二つ目の「苦労は、ずっとある」と思うこと。人生の中でいろいろ大変なことがあるからこそ、苦労と大変の間に訪れる「幸せ」と感じることができるのです。人により一つのことに対して夫々の考えを持っていると思えば、理不尽ながあったとしても、これは「仕方がないこと」と思うことで、次の新たな幸せに向かって歩んでいけると思います。

三つ目の「愛されるより愛することが先」という考え方は、人生において人に対しても物事に対しても積極的に生きていくことができると思います。この考え方は、以前にも書きましたが、NZの人々と同じ考えです。このような考え方をすると、人に対して寛容になり、自然に笑顔になるのです。そうすると街中が幸福感に溢れた感じになります。NZから帰国後、私が一番何に違和感を持ったかというと、物やブランド品は街に溢れているのに、街中を歩いている人々の無表情と不機嫌な様子でした。

現代は、ストレスに溢れた社会であり、一人ひとり夫々の悩みを抱えています。でも、見方や考え方を変えれば、心が軽くなり、人生をもっと楽しむことができると思うのです。要は、「幸せを感じること、不幸せと感じること」も自分次第ということです。
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by eastwatery | 2007-08-22 21:52  

祖父を殺した少年(8月21日)


1昨日、祖父を殺した16歳の少年が、東京の秋葉原で今日逮捕されたという。場所が秋葉原というのも、なんだか哀れで胸がつぶれる思いがします。何よりも哀れなのは、所持金が50円しかなく、スナックが菓子を万引きをしたので、指紋を合わせたら逮捕状を出されている少年と一致したということです。お腹がすいていたのでしょう。

祖父を殺し、祖母に暴行しトイレに長時間閉じ込めていたのですから、少年が起こしたことは凶悪な事件です。そちらの方を責めるべきかもしれませんが、私はどうしてもそういう気持ちになれないのです。今日の朝刊には近所の人の話として「祖父はまじめな性格で教育熱心だった。孫が言うことを聞かないと漏らしていた」とのこと。少年は昨年の夏ごろから祖父夫婦と一緒に住んでいたそうです。別の朝のニュースでは、少年は、山口に来るまでは、広島で歯科医の母やきょうだいと一緒に住み。広島の高校に通っていたということでした。

また、夕方のニュースでは現在、彼が通学している高校の校長が「先月クラブ活動をやめ、勉強に専念するといっていた。進学コースは理系を選び、将来は医者になりたいということだった」と記者会見で言っていました。以前、医者の父に医者になることを期待され、拷問に近い仕打ちを受けた少年が、父の留守に自宅に放火して義母と義きょうだいを焼死させた事件があり、当分この親子関係についてメディアで報じられていました。そのほか、やはり両親が医者・歯科医である浪人生による妹の殺害事件もありました。

これらのどのニュースを聞いても、犯した罪は許せないのですが、どうしても犯人たちに哀れさを感じます。彼らが、もっと自分を解放することができて、両親や祖父母などに自己主張できて、本当の自分の気持ちを話すことができる環境であったなら、こういう事件は起こらなかったと思うのです。彼らは、10代、20代という若さで、一生家族を殺した罪を背負って生きていくことになるのです。医者の父に暴行を受けていた少年が、他人の家にしのび見込み、夜中にテレビでサッカーを見ていたこと、今回の少年がよく話題に上がる秋葉原に行っていたこと、もとても哀れに思えます。辛抱する心、忍耐力がなかったといえば、それまでですが、彼らが殺人を犯すまでに追い詰められている気持ちを家族は、どうして気づかなかったのか、と思います。

以前ブログにも書きましたが、最近、保護者向けに「いかに頭のいい子どもに育てるか、エリートに育てる学習方法」という記事などを掲載した雑誌が数種類発売されています。学校だけでなく、家庭、地域などでも、学校のような社会にしてしまうことを「学校化社会」といいますが、そういう社会にしていくと、教育熱心な親に育てられた真面目な子どもたちは、息抜きの場がなくなってしまうと思うのです。「何が幸福か?」それは親が決めることではなく、子どもが決めていくのではないかと思います。親は「木の上から立って見る」姿勢で、温かな目と心でじっと見守ることで十分なのでは、ないでしょうか。
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by eastwatery | 2007-08-21 23:10