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広島大学におけるキャリア支援(1月31日)

今日は、私たちの知人でもある広島大学キャリアセンター長(教授)のTさんが定年退職記念講演をなさるということで、夫と共に東広島市の広大へ出かけていきました。Tさんは、元マツダで社員の教育関係の部署で、人を育てる仕事に長くかかわってこられ、その後アメリカで6年間、アメリカマツダの副社長をされた人です。

今日の講演のタイトルは「広島大学におけるキャリア支援の総括と課題」でした。Tさんは、キャリアセンター長であると共に講義も行う教授として広大のキャリア支援を教育者の立場から振り返り、在職中の8年間を教育者の立場から振り返り、課題を整理しながら話されました。

Tさんは,アメリカ居住の6年間、アメリカをはじめとする外国の若者と日本の若者を比べた時に日本の若者のひ弱さ(特に男性の)に心を痛め、21世紀には主人公となる彼らの課題や生き方について、これからは自分が彼らにどう貢献していくかを考えられたそうです。その結果、日本の若者の課題は「早期職業観、自己表現力、機会均等、倫理観(誠実さ)」であると認識し、それ以後、世代別課題を見通した生き方支援をしたいと思うようになったということです。それからは、若者の内なる気を聞きつつ、生き方支援をすることに情熱を傾けられました。Tさんは、キャリア支援を一言で言うと「キャリア支援は、生き方支援」と言われました。

キャリア支援には、まず「キャリア思考」が求められます。それは①どこに行きたいのか(ビジョン)、②今どこにいるのか(現状理解)、③そのために何を始めるか(行動)ということです。その一方で、社会や企業が求めるのは「課題解決思考」であり①あるべき姿は何か(ビジョン・目標)、②それに対して現状はどうか(現状把握)、③あるべき姿とずれをどううめる(解決行動)かです。すなわち、よりよく「生きる」「学ぶ」「働く」ためには「ビジョン」「能力」「行動」が必要だということです。

そういう考えを持ち、学生とかかわる中でTさんはキャリア支援においては、目標値を示すこと(期待される姿と直視すべき現実を示す)が重要であると考えました。 課題を乗り越えていけない学生には、目標値に迫ること、厳しいかもしれません。しかし、大学1年の時点からこのようなキャリア支援をしていけば、学生たちは早く職業選択と自己実現をしていく重要性を理解するようになるということでした。その結果、広島大学は2007年の「週刊朝日大学ランキング」でキャリア支援では全国の大学で8位、国立大ではトップになったということです。

このようなキャリア支援を受けた学生は、「就職活動を通じて、自己理解・勉学意欲が向上した」とキャリア支援に対して高く評価しました。が、Tさんは、これは本来大学が教育のしくみの中で、実践・深化・向上すべきことだと言われます。学生は「自分の人生を大切にしたい。自分で脚本を描きたい。しかし、どうしたらいいか分からない」というのです。そういう学生に対して、キャリア支援は「どうしたらいいか分からない」という学生の突破口になるものだと、Tさんはこれまでの実践の中で確信されています。Tさんの考え方は、キャリア支援は共通教育・専門教育の学習効果を補完するもので、大学教育の仕組みの一つだということです。

そして、ここで重要なのは支援する人間の教育が必要だということです。というのは、重要なのは「学生の主体的キャリア学習の展開」なのです。つまり、多様で活用しやすい支援を準備する弊害は、ますます動かない学生を生むことになるので、生きるための「学習と自立」を支援するという意味で、新入生からのキャリアガイダンスをさらに充実させる必要があるということでした。そのほか、教員の意識・行動や大学の文化・風土など大学の総合的な対応が必要とされます。また、キャリア支援の専門職員の育成など全部で6点の課題があるということでした。

ここまで、書いたときにTさんからお礼の電話が入りました。何たる偶然。お互いに驚きました。Tさんは言われます。「生きる」「働く」を重ねながら、夢や目標を問い、「学び自立」することで「21世紀の課題の解決に対し、挑戦し行動する人間」の育成をすることが重要だと。私たちが「日本女性会議2007ひろしま」の分科会でキャリア教育について3時間の基調講演・シンポジュウムをするのも、一言で言えばタイトルの「生きる力を育てるために~未来を拓く「キャリア教育」を探る~」が目的だからです。電話の最後にTさんは「ひ弱な若き日本の男性ですが、現在は女性が逞しくがんばっているので、もっと自立した女性を育て男性に元気を与えるように、広大退職後は、Y女子大学のキャリアセンター長になり、がんばるつもりです」。ああー、Y女子大学が羨ましい!!
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by eastwaterY | 2007-01-31 22:02  

売り手市場で就活学生が重視する「社風」(1月30日)

息子も、今年は就活の立場にあるので、今日もまた「売り手市場の就活」にこだわってみたいと思います。

企業による新卒者向けの採用活動が本格化しています。学生たちが企業選びで重視する項目で、ここ数年、上昇傾向にあるのが「社風」とのこと。彼らが、社風が良いと判断する要素のトップは「社員の人間関係が良い」(72.5%)、次いで「企業理念・経営理念に共感できる」「成長できそうな環境がある」「人事担当者の印象が良い」「給与・待遇が良い」と続いています。

その一方で、学生のそうした意識に対応して、企業側も学生に「社風の良さ」を、いかにうまく伝えるかを重要視し、具体的に発信する努力をしているそうです。例えば、会社説明会では職種ごとにブースを設け、社員を年代別に分けて配置し、学生が「社風」を実感できる取り組みを行う企業が増えています。企業の中には自分の仕事を楽しそうに語る社員や映像や図を使用して面白そうなプレゼンテーションを行うということなども行われているということは、採用側もとにかく学生が自分の方に目を向けてくれることが第一という感じです。

個別面談では、真剣に就職活動に取り組んでいる学生は、社風を知るために、具体的な的な質疑応答だけでなく「自分が求められているか」を感じようとするとのこと。さらに、「5年後、10年後にこの人のようになりたい」など、社員との会話の中で、いかに”感動体験“ができるかが、学生側の大きな決め手となっているということです。これは一見、売り手市場のようにみえますが、このような方法は、学生側がある程度、自分の人生や職業を具体的に考えていなければ、質疑応答するだけで、将来のことを考えることはできないと思うのです。企業側から買い手市場的に試されているとも言えます。

前述の「企業理念・経営理念に共感できる」「成長できそうな環境がある」というのは、取り寄せたパンフからも面接以前に知ることはできます。そういうことから考えると、学生たちが重視する「社風」は、さまざまな前提条件があるにしても、出会った社員の個性や熱意によるところが大きいようです。

これらの情報は「毎日就職ナビ」から得たのですが、最後にこの部分の終わりには、こう締めくくられています。 「就職活動は、ちょっと恋愛関係に似ているのかも知れません。」と。このことに関しては、以前ある調査で会社を辞めた理由の第1位が、「人間関係」だったことを考えれば、頷けることかもしれません。
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by eastwaterY | 2007-01-30 21:06  

新卒の就職は売り手市場(1月29日)

このところ、毎日なが~いブログを書いてしまって申し訳ありません。それにもかかわらず、毎日読んで下さっている方が、多いときで40人を越え、少ないときでも30人はいらっしゃることを感謝しています。有難うございます。今日は、すこし短いブログにしたいと考えています(?)。
実は、ブログのテーマを「これにしようか、あれにしようか」と考えていたのですが、今「ニュースステーション」を観ていたら今年の新卒の就職状況を伝えていたので、そのことについて考えたいと思います。

今年は、80年代の後半のバブル期に次ぐくらい新卒の就職率が高く、完全な売り手市場だということです。バブル期は今以上の売り手市場だったので、一人の学生が3つも4つも内定をもらい、企業によっては他の企業に学生を引き抜かれないために豪華旅行をプレゼントしていたりしていたそうです。数年前までの長い氷河期からは、考えられないことです。

今日のニュースでは、大きな会場に各企業がブースを出し、企業説明をしていました。レポーターがちょっと美人の女子学生に「どんなところに就職したいですか?」と尋ねたら「有名な会社がいいですねぇ」とニコニコ笑いながら話していました。また、もう一人の真面目そうな男子学生に同じ質問をしたら、彼の答えも同じでした。その後、レポーターが、あまり有名でない企業のブースに行ったら、「なかなか学生さんが来てくれません」とのことでした。レポーターは「どうも、有名な企業に就職したいという人が多いようです」といいました。「えっ!」と私は一瞬言葉を失いました。

私は現在「日本女性会議2007ひろしま」の分科会でキャリア教育を担当しています。10月19日の本大会に向けていろいろ調べたり、市民向けに学習会を行うなどをして「キャリア教育」を市民に伝えるには、どういうタイトルにしたら良いか参加してくださる大学の先生やキャリアカウンセラーの人と話し合いをし、その結果「キャリア教育」の分科会テーマを「『生きる力を育てるために~未来を拓く「キャリア教育」を探る~』としました。キャリア教育は1990年代に入って文科省が提唱し、キャリア教育に力がいれられるようになり、ニートやフリーターの増加に伴い、いっそうキャリア教育が推進されるようになりました。

したがって、現在は小・中・高校でのキャリア教育も行われるようになり、大学においては,各大学の 就職課が、キャリアセンターなるものに変わり、いろいろなプログラムを組んで「生きる力を育てる教育」が行われているのです。私は昨秋母校のキャリア教育の講座を特別許可をもらって聴講しました。講師は、大学教授だけでなく、キャリアカウンセラー、起業家、厚生労働省が行っている「若者お仕事塾」の人たちなどよる、多様な講義でした。時には、それまでの自分の人生や学習歴を振り返ることなどをして、これからの彼らの人生をどう生きていくかを考えるキャリアデザインなどの講義もありました。

それらの講義を受講していたので、今日の「有名な企業に就職したい」という回答には、驚くだけでなく、憤然としてしまいました。20歳過ぎたばかりの若者が、「これから始まる新たな自立の人生をどのように考えているのか、自分は何に興味を持ち、どのような生き方をしたいのか、それによってどう社会貢献をしていきたいのか」そういうことを考えていないことに気分を害しました。たとえば今、有名な企業であってもこの変化の激しい時代に、何時、その企業がどう変わっていくのか、考えないのか? 日本の現状を考えれば、これからは男女が共に仕事と家庭を持って働かなければならなくなる時代が来ることは分かると思うのです。

しかし、取材を受けた女子学生はまるでペットを選ぶような感覚でしか、会社選びを考えていないようにみえました。有名な企業であれば、人にも誇れるし、高収入の男性と結婚できると思っているのでは? それは、キャリア教育で言われている内的キャリア(個人の適性を掘り起こし能力を開発していく)というものではなく、外的なキャリアである、外側に見える自分を意識して就職を考えているだけのものなのです。男子学生も「有名な企業に・・・・・」といっていることを考えると、これからの日本社会が不安になってきます。

やはり長くなってしまって、すみま~せん。
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by eastwaterY | 2007-01-29 23:40  

中島誠之助さんと母親(1月28日)

日曜日の午後6時半から放映されている「グレートマザー物語」のファンで、何かの行事で観られない時を除いて、たいていこの番組は楽しみにして観ています。有名人の母親がどのようにその人に影響を与えたか、母親の言動を思い出しながら、有名人が自分の人生をふり返るのがこの番組の特徴です。

今日は、「開運なんでも鑑定団」の審査員の中でも主に陶磁器の鑑定を担当していらっしゃる中島誠之助さんの「グレートマザー物語」でした。彼は、養母にこれ以上ないと思うほど愛情を持って育てられましたが、その事実を彼が知ったのは8歳のときでした。それまでは実母だと思っていた養母が、実父母は彼が幼い時に亡くなっていることを告げたのですが、養母が自分をとても愛していることが分かっていたので、その事実にショックを受けることはありませんでした。やがて、生活の困窮時代となり、養母は叔父の別荘に彼を置いて上京し時々しか帰ってこない日々が続きました。周りの人の言動から養母は売春婦(その当時はパンパンといっていました)をして、彼と自分との生活費を捻出していたことを知りました。しかし、そのことをいくら周りの人が悪く言おうと、中島さんは幼いながらも、「そのようなことをしてまで、自分を養ってくれている」と思い、養母のことを悪く思うことはなかったとのこと。本当に母親が自分を愛してくれているということを幼いときから感じていれば、しっかり母子との間に信頼関係ができ、自己肯定感があるので、母親の職業のことで母を恨むということはなかったのです。また、現在、こうして有名になっても、その事実を堂々とTVで話す中島さんを見て、頭の下がる思いがしました。

ある日、骨董商を営んでいる叔父の別荘を売るということになり、その別荘から出るときに、彼は叔父の荷物を積んだトラックに飛び乗り、叔父の家に行くことをわずか10歳で決意したのです。「そのときに私は養母を捨てたのです。そしてそれ以後、母は私の前から姿を消し、長い間行方不明の状態が続いたのです」と語られました。それ以後、彼は叔父に受け入れてもらい、学校にも行かせてもらいましたが、叔父たちからは彼に何の関心も寄せられず、ほめられもせず日々を送ったということで、要するに叔父の家では彼の存在感は、なかったということです。

その後、中島さんは骨董商になるべく叔父に弟子入りをし、厳しい修行を積み、昭和51年に自分の店を持って技を磨きつつ商売を続けているうちにマスコミなどにも取り上げられるようになりました。そういう日々を過ごしていたある日、美術家の一人から、ある老人ホームで中島さんの作品集や新聞記事を丁寧に収集している人がいると聞いたので、その老人ホームを訪ねました。そのとき養母は80歳を過ぎていましたが、以前と同じように背骨をきちんと伸ばした姿勢で凛とした態度だったそうです。中島さんが自分のことを言っても、「自分はそうではない、知らない」と言い張り、彼の養母であるということを
明かそうとはしなかったといいます。だから、中島さんは「自分はもう商売にも成功し、結婚もし、お金もあるし、何の不自由もない生活をしているのだから心配はないのだ」と切々と養母に話した後、やっと自分が彼の養母だということを彼女は明かしたということです。養母は、自分が中島さんの養母だと分かると彼に迷惑をかけると思い、自分のことを明かそうとはしなかったのです。何十年ぶりの再会ですから、さぞ嬉しかったと思うのに、強く彼を愛しているために養母は、そういう行動をとったものと思われます。

その後2年間、中島さんは養母が住んでいる老人ホームをたびたび訪ねてましたが、2年後には逝去されたとのこと。そして、養母の荷物の整理をしているときにノートが出てきました。そこには、自分が中島さんと責任を持って育てることができなかった後悔と彼に対する懺悔の気持ちが切々と何冊ものノートに書かれていたということです。何十年も彼と会うこともなく、また、そのときは彼と再会できることも不明なのに、とても丁寧な字で書かれていました。

私は、「開運なんでも鑑定団」を観る時、いつも中島さんは、きっとお金持ちの骨董商の息子として大事に育てられた人なのだろうと思い、温かな家庭で愛されて育った人が持つ優しさを感じていました。しかし、彼の波瀾万丈の生活を聞き、彼の優しさは苦労を肥やしとして人への思いやりを持つ人になられたということを知りました。そして、その人間性は、物心のつかない時から徹底的に養母から愛されて育ったことに基礎があるのだと思いました。自己の存在感がないほど無視された生活の中でも、ぐれもせず耐えて成長できたのも、「養母の愛」がその基盤になっていたのでした。つくづく、いかに誕生以来、「親から愛された」という実感を持って生きることが重要かということを改めて考えさせられた番組でした。
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by eastwaterY | 2007-01-28 23:01  

小さな親切(1月27日)

今日は、午後から広島市まちづくり市民交流プラザの依頼で生涯学習相談会を開きました。生涯学習といっても幅広く、私たちが主に行っているのは、相談に来た人が、「何に興味関心をもち、どのような学習をしたいのかなど」を、まず本人から聞きます。それによって、各社会教育施設、各大学などで行われている講座・公開講座の案内と内容の説明をし、それを基として相談を受けます。もう一つは社会人の大学進学に対する相談などをします。この相談は、長い時間が必要です。時には、1回にとどまらず、私個人が引き続き相談・支援をすることもあります。

今日のブログは、そのことではなく、「小さな親切」についてです。今日、相談会をした広島市まちづくり市民交流プラザは、いつも完璧に近い清掃状態にあり、洗面所でもトイレでも気持ちよく利用できるようにされています。今日は、そこで「小さな親切」に気づき、考えました。

相談がすんで一段落して、トイレ(ちょっと場所が悪くてすみません)に入った時に「小さな親切」に出会ったのです。トイレットペーパーをとろうとしたとき、「あっ、これって小さな親切」と思ったのです。それは・・・・トイレットペーパーの先が三角に折ってあって、取り易いようにしてあるのです。この場景は、私だけでなく、誰でも何度か経験していることですが、今日はこのことが私に「小さな親切」を考えるきっかけになりました。

かなり前には「小さな親切運動」ということが、しきりに言われていましたが、最近はそう言われることもなくなりました。それどころか、若い世代では「情けは人のためならず」ということを「人に情けをかけたら、その人のためにならない」という解釈をする人が増えて、寂しい思いをしています。

そこで今日は、前述のきっかけから家族とか知人ではなく、不特定多数の人に対する「小さな親切とは?」ということを、私なりに思い浮かべてみました。まず一番に思ったのは、乗り物に乗ったときのことでした。高齢者、妊婦さん、幼児には自然に席を譲ること、乗り物に乗るときは高齢者が後ろにいても先に乗ってもらうようにすること、重い荷物を持っている人がいた場合は、その荷物を持ってあげることです。しかし、最後の行動は、私が親切だと思って申し出たときに、学生さんが不快な表情で「いいです!」といわれ、いやな思いをさせてしまったことがあるので、自分なりの親切がいいかどうかも考えるところです。

次に考えたことは、車の運転をしているとき、信号機のない横断歩道のところで、いつ横断しようかと思う人がいる場合は止まる、(当然のことですが)自転車に乗っている人がいる時は、その横をゆっくりと通り過ぎる、これは幼児を連れた人の場合も同じです。このことは「親切」ということではなく道路交通法で規則として守るようにされていることですが、あまりにも守らない人が多いので、私が勝手に「親切」の類に入れました。

スーパーやお店に行ったとき、たまに腐っている野菜や、パックの中の野菜などが腐っているとき、店員さんに小さな声でそのことを告げる、ドアーのガラスに大きなひびが入っていて、幼児の背の高さにより危険な場合もあると思い、そのことを告げる、フロアーが水に濡れていて滑りやすいときなどなど。しかし、この場合も私が親切だと思ってやったことに不快感を示されることもあります。また、ガラスのひびは、そのことを告げて6ヶ月後に、やっとガラスの交換がされていました。なかなかガラスの交換がされないので、子どもが勢いよくぶっつかっていたら、大怪我をすると思い、3回くらい店員さんに言ったのですが、なかなか店側が動かなかったのです。しかし、滑りやすいフロアーの時には、店員さんがすばやく対処してくださいました。ことほど左様に、たったこれだけのことでもお店の経営姿勢が問われます(でも、これって親切には関係ないかもしれません。従業員教育と客本位の経営をしているかどうかです)。

ちょっと,話が横にそれてしまいましたが、「小さな親切」を考えてみたとき「親切」と「お節介」の違いを自分自身がよく分かっていることだと思いました。私は日頃から、「これは自分が良いと思うこと」は、すぐ行動に移す方なので、お節介にならないように気をつけなければいけないと思いました。そう考えると他者に対する「思いやり」とはどうか、ということが親切の一つの基準になるのではないか、というように考えました。
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by eastwaterY | 2007-01-27 20:12  

不登校フォーラムに参加して(1月26日)

昨日も電話相談3件にかかわり、あっという間の3時間でしたが、まだまだ自分の知識・経験不足を感じています。したがって、2月~4月にかけては、センターの研修も含めて、多くの学習や研修会に参加する機会が増えています。

今日は、広島県教育委員会が主催する「広島県不登校フォーラム」へ参加してきました。
午前9時半~午後4時まで講話あり、講演あり、分科会での話し合い学習、全体会報告・協議など昼食時間を除いて、たっぷりと不登校について学習してきました。参加者の多くは、小・中学校の教師が多く、それに加えて私のように相談業務にかかわる各地の人たちも参加していました。

今日のプログラムの中で一番学習でき、目からウロコの知識や取り組みなどのヒントを下さったのは、「不登校児童生徒への理解と援助について」を講演された東京学芸大学の小林正幸教授の講演でした。小林教授は、教育実践研究支援センターで学生と共に不登校児の研究と実践・調査をされています。したがって、理論だけの講義と違い実践研究から出たデータを示しながら講義をされるので、理解しやすいものでした。また、先生のお人柄からか、常にユーモアと温かなハートのある言葉を用いての講演でした。

最近、問題となっている「いじめ」についての講義でも、ただ単に「いじめは絶対に許さない!」というだけを通していくと、とんでもないことになるとのこと。そういう考えでいると、いじめの加害者である「いじめっ子」に対しては厳しい指導だけになるので、指導方法を考える必要があるということでした。それは、いじめっ子が持っている否定的な感情(怒り、ムカツキなど)の裏に何かがあるのだから、それを出すように対応し、その感情に気づいて、まず受け入れていくこと。その後は、規範というものがあるのだから、その行動は直すように厳しく対応するということでした。

過日の教育再生会議では、いじめっ子は「出席停止」ということが決まりましたが、今日の小林先生の講演を聞くと、教師一人ひとりが情熱をもって子どもたちにかかわることにより、いじめっ子、不登校児に対しても教育的効果が現れていじめがおさまり、不登校児の数が減りつつあるということでした。先生は、特に東京周辺の熊谷市や新座市などで、先生作成の「個別支援シート」や「小中連携支援シート」を用いて不登校児への対策を実施しておられます。その実践は、不登校だけでなく、軽度発達障害、対人不安も含めたもので、先生はこれらのシートの一つずつにコメントを書いていかれます。時には800枚ということもあるそうです。

もちろん、そのシートに子どもたち一人ひとりの書き込みをする教師も相当な労力と気力を要するし、アンケート調査においても教師たちからは、「大変だ」という回答が多かったのですが、「では、こういう事はやめるか?」という問いかけに対しては、全員が「やらせてください」といってそうです。「うれしかったですねぇ」と小林先生は言われました。大変でも、ぜひしたいというのは、それらのことを実施することにより、確実にここ数年、不登校児が減少しているからです。

小林先生は、不登校は悪くないと断言されました。「不登校の問題では,学校と子どもとの関係が悪いからである」といっておられます。不登校のきっかけは学校環境によるものが多いのだから、①友人関係をよくする、②学業不振を補う、③師弟関係を良くすることによって、子どもは変わっていくということです。具体的に言うと、例えば、朝の挨拶にしても一人ひとりの子どもを平素から良く見ておけば、教師はその子だけにあった言葉をかけることができます。そのことにより、子ども一人ひとりが「自己肯定観」を持つことができるのです。小林先生が多くの実践をして不登校の改善のために見えてきたことは、①月2,3日の欠席でも深刻に捉えて対応する必要がある、②教師の熱意や積極的な姿勢が重要(不登校を改善するために子どもの感情を受け入れ、その存在を受容する)ということでした。

しかし、こういう実践をしていくためには、もっと現場の教師を増やすことが必要であるし、時には地域住民の人材活用をしながら、地域と学校が連携・融合していくことが求められます。今日は,私たちは学校教育にかかわる立場としての研修ではありませんでしたが、電話相談にかかわるものとして、分科会ではその成果を話し合いの上、発表しました。
そのキーワードは『間接的支援』という言葉です。発表した内容は、もう一人の同じ立場にある相談員と考えたものですが、その概要を書きます。

「私たちが携わる相談は主に成人女性が多い。相談内容の中で相談者本人の情緒不安定状況の中に「子供の不登校」を思わせるものがあるようでも、相談者が明確にそのことをいうことは少ない。しかし、私たちは相談者の不安定要素が少しでも少なくなるように傾聴を心がけ、時には提案もしながら相談者の気持ちが少しでも安定の方向に向かうように努めている。そのことにより、相談者は、ミスから問題解決に対して答えを出していく場合も多い。これは、間接的に不登校児への支援になると考えている。」というものですが、自ずと電話相談員であるが故の限界もあることも話しました。

はじめは場違いの所に來たのではないか、という思いもありましたが、この発表については教育委員会から間接的支援の重要性を認めるコメントがありました。これから、今日学習したことが一段と電話相談に生かされることだと思っています。
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by eastwaterY | 2007-01-26 21:14  

進化論と経済学~格差の正体~(1月25日)

『上流』『下流』と言う言葉が定着しつつありますが、「勝者」と「敗者」に二分された社会が私たちにとって望ましい社会とは思えません。現在、小泉改革の結果、国中が勝ち組と負け組みに二極分化しつつあります。地域、企業、個人間の格差が広がり、このままでは、ごく一握りの勝者が残りの敗者のすべてを奪ってしまうということになりかねません。

過日、久しぶりに血圧・血液検査をしてもらおうと家庭医である医院に出かけ、待合室で待っているときに『週間朝日』を読んでいたら、面白い記事に出会いました。読んで見ると、これはぜひブログに載せたいと思い、受付の人に訳を言って近くのコンビニでコピーをしてきました。(この行為は、我ながら完全にブログにはまっている証拠だと思い、一人で笑ってしまいましたが・・・)

さて、本題に入りましょう。この記事は「競争」と「共存」は常に古くからのテーマだというところから始まっています。1978年、京都の妙心寺の庭を望む静かな1室でノーベル経済学賞を受賞した世界的経済学者で自由主義を提唱したフリードリッヒ・フォン・ハイエクさんとニホンザルの研究で知られる人類学者の今西錦治さんの対談が行われました。先述の小泉改革の思想的源流を作ったのが、ハイエクさんによって提唱された自由主義は、その後シカゴ学派に引き継がれ、新自由主義経済として各国に広がっていき、今でも各国の市場重視路線を支えているということです。

その一方で、今西さんは、自然淘汰や優勝劣敗を核とするダーウィンの進化論を否定したことで有名な研究者です。種の変化は、共存による棲み分けから発生するという「棲み分け理論」を提唱しています。今西さんは「(略)生物の種類がいくらあろうとも(中略)それらは、それぞれにこの地上を棲み分けている。進化とは、この棲み分けの密度が高くなることである。(中略)しかるに種と種が競争することによってこの棲み分けを破壊するようなことが許されてよいものだろうか」とダーウィンの進化論に仮借のない批判を加えていました。そして、その棲み分けにより縄張り協定ができて、争いは起こらないというのです。したがって、その種の永続、永世ということが保障されることとなり、ダーウィンの競争原理に対して今西さんの進化論は共存の原理に立っているということです。

2001年に小泉総理が所信表明演説を行ったとき「ダーウィンは『この世に生き残る生き物は,もっとも力の強いものか。そうではない。もっとも頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ』という考えを示しました。すなわち、消費者がほしいと思ったものが買われ、いらないと思ったものは見向きもされない。弱肉強食ではなく優勝劣敗の世界となり、中小企業はつぶしていけないのではなく、意味のない企業はつぶれた方が経済的には良いという現実となるということです。2001年から5年間、構造改革の名で日本中がソーシャル・ダーウィニズムの実験場にされてきたといえると、この記事には書かれており、その影響をもろに受けたのが、昔から地元で商売を営む商店街になるのです。今では中心市街地の活気が失われ、空き店舗が並ぶ「シャッターとおり」が全国に広がっていきました。

ところで、妙心寺で行われた対談で二人の話題は東西文明論から市場経済、進化論と多岐に渡りましたが、ハイエクさんは最後まで今西理論の概念を理解できなかったようだとのこと。今西さんとハイエクさんの違いは「万物に神が宿るという自然観VS唯一絶対神の宗教観、共存と和VS徹底した論理性と合理性」ということです。

しかし、対談を終え帰国するとき、ハイエクさんは日本側の関係者に「これからの世界は多元的志向、つまり多神教的な世界の価値と意味を深く考える必要があるだろう。こんどの日本訪問ではそのことを深く学んだ、それを感謝する」と語ったとのことです。その後、アメリカをはじめとして新自由主義経済が世界中に広がっていったのですが、その教祖といえるハイエクさんは自由主義を説く一方、共存と和という日本的発想に真摯に耳を傾けたのは、今西さんとの出会いであったということです。このお二人の対談を仕掛けたハイエクさんの自由主義を一貫して支持した田中静玄さんは「二人の対話がかみあわなかったことこそ、今日最も検証されるべきものである。東西両文明の相互理解と融合こそ、人類が直面している危機を乗り越えるために、今もなお最も緊急の課題だと思う」と語っています。現在、小泉内閣から継承した安倍内閣の政策は、新自由主義経済の色彩をさらに強めようとしているということを考えると、今後の日本はどのような道を歩んでいくのか、非常に不安感を覚えます。

私は、人が生きていく上では「自立」と「共生・響生」が重要だと思っています。一人ひとりが個人として「自立」していれば、自立できていない人を支援することができるし、その一方で自立できない人は『助けて』と言えることが本当の自立をしているということであり、両者は対等だと思っています。これは「共生」の基本的な考え方であり、それにプラスして「響生」を入れたのは「共生した人たちが、互いに対話をしながら響き合う」という意味を含んでいます。そういう世の中になれば、競争しながらも「共存」できる社会になっていくのではないかと考えます。

今日は、ぜひ伝えたいことが多く、長文になってしまいました。ここまで、辛抱強く読んでくださった皆様、有難うございました。
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by eastwaterY | 2007-01-25 21:58  

「家族」とは?~その2~

その次に「家族」になったのは、「さっちゃん」を預かってくれた友人のYさんが、引き続き犬を飼い、その犬が産んだ子犬をもらった「ロッキー」です雑種の雄犬で、生後三ヶ月で我が家の一員となりました。当時もまだ、息子は誕生しておらず、夫婦で子ども同様に何でも話しかけて育てました。そのためか、やはり自分は人間と思っているようだったし、私たちの気持ち、体調、言葉はよく理解していたように思います。朝晩の散歩の時も私の体調が悪い時は、何も言わないでも察して、私の顔を何度もちらちらみながら、ゆっくり足を運んでいました。

今までの「ロッキー」の生涯で、一番悲しく辛そうだったその顔を忘れることができません。それは・・・・・息子が誕生した頃、庭に面した居間で、息子に乳をふくませているときでした。カーテンの合わせ目が少し開いていて、外から中の様子が見えるようになっていました。ひとしきり、息子に母乳を飲ませて、ふっと顔を上げてみたとき、「ロッキー」が、じっと私を見ていました。悲しく、さびしく、今にも涙のこぼれそうな顔でした。私は、母に「私が乳を飲ませている間、ロッキーを撫でやって」と頼んだのだのですが、「ロッキー」は、私がかまってやらないと納得いかない様子だと、母は言いました。犬は、嫉妬深い動物だといわれていますが、そのとき彼の感情は、そういう程度の低いものではないような気がしました。悲しみ、辛さに、ひたすら耐えている強さも感じたのは、私の考えすぎでしょうか。

その後、「ロッキー」はまさに息子のお兄さんのようでした。息子が訳の分からない年齢の時に、箒を振り回して「ロッキー」を追っかけようと、時にはからかわれようと、決してはむかう事も怒ることもしませんでした。息子が3歳くらいからは、「ロッキー」と近所の子ども4,5人で夕方の散歩に行くのが慣わしとなっていました。

自宅の近くには、杉や楠がうっそうと生茂ったお宮があり、そのあたりをワイワイいいながら散歩をしていました。春には、新芽のもみじの美しさに見とれたり、てんとう虫の幼虫が石垣に固まってひっついているのをみたり。夏には、山からの冷たい水に喉を潤したり、虫を追ってみたり、「ロッキー」も人間になったつもりか、嬉々として走り回っていました。私も童心に返ってはしゃいでいました。秋には、たくさんの楽しみがありました。

そこかしこに落ちている椎の実やどんぐりを拾ったり、びっしり敷き詰められた落ち葉を踏んで歩いて、滑ったり。冬には、寒い日はちょっと面倒と思うこともありましたが、「ロッキー」も子どもも雪が大好きで、わざわざ解けかけた雪の上を歩いてびしょびしょになりながらも1時間は散歩をしていました。私としては、夕食の準備もあり、イライラすることもありましたが、「ロッキー」と自然と私たちが一体となることで、なごやかで、やさしい気持ちになれるひと時を過ごしたと思っています。こうした暮らしの中で、「ロッキー」も「さっちゃん」と同様、私たちの心の中が、ふんわりと温かくなるような思い出をいっぱい残してくれました。

しかし、10歳半になった冬、別れの日がやってきました。少しずつ調子が悪くなっていったので、獣医さんに診てもらいました。「よくまあ、この年齢まで生きましたね。この犬は、先天的に心臓に穴が開いていたのですよ。ここまで、生きたのは奇跡です」といわれました。そうだったのか、生来、とてもおとなしく食欲も細い犬だったのはそのためだったのか、もっと早く気づいてやればよかった、と思いました。歴代の「家族」が、ずっとこの獣医さんにかかっていたこともあって、休みの日も含めて、「ロッキー」が苦しまないでその日が迎えられるように看てくださいました。

そして・・・・何日かたったある日、本当に別れの日が来ました。その日も私が「ロッキー」を抱いて、診察室で待っていたとき、突然痙攣が始まり、あっという間に私の腕の中で息絶えました。先生が、生き返らせるために人工呼吸やあらゆる処置をしてくださったのですが、再び生き返る事はありませんでした。心配で一緒に来ていた息子は、あまりの出来事に呆然とし、そして、激しく泣きました。当時、息子は7歳でした。そのとき、初めて彼は、愛するものが死ぬということが、どれだけ辛いことか、「死」というものは、いかにしても逃れられないものなのだということを知ったのではないかと思います。

「家族」の中では、ロッキーが一番私たち家族の中に深く心に刻まれている犬だと思います。人間以上に人間らしく、思いやりもあり、賢かったのです。今でも、忘れることができずリビングの写真立てに飾って、ときどき「ロッキーはねぇ・・・・」と話しています。

もう一つの「家族」は1昨年の3月初旬、私たちのもとから旅立っていった「ハッピー」です。彼のことも書ききれないほどの思いがあるので、これは、また次の機会とします。
いずれにしても、どの「家族」も私たちの絆をより深く結び付けてくれ、幸せにしてくれました。それらの「家族」は、どれも我が家の庭の一隅に葬られています。

そして、早春になると庭に咲いているやぶ椿の花が彼らをそっと見守っています。
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by eastwaterY | 2007-01-24 23:44  

星野富弘さんの幸せ(1月23日)

いわしを 食べようと くちをあければ
いわしも くちを あけていた
いわしを 私の口に運ぶのは母
見れば その母の くちも
アーン と大きく 開いていた

いわしは 水から 干されたため
私は それを 食べるため
母は 子を思う心から

たえまなく 咀嚼を続ける
“時”という くちのまっただ中で
二人と二匹の いわしが精一杯 くちを 開いている
ささやかな 昼めし時

これは、JAF (日本自動車連盟)が発行している『JAF Mate2007.1-2』の1ページ目に掲載されている星野富弘さんの詩です。この詩に対して星野さんとは、高校時代からの親友であり、自動車評論家、JAF理事の舘内端さんが[投語]をいい、次にB星野さんが[答語]として次のように答えています。

[投語]

食って幸せ  食われて幸せ  二人と二匹は  芳醇な時を過ごしましたね 
うらやましい 限りでです

[答語]

大きく開けた  口の中に  幸せが舞い降りる   こともあります

詩を読み, [投語] と [答語]を読んで、とても感動しました。
何で? よく[幸せは自分の中にある], [幸せは自分が決める]といわれます。その[幸せ]の定義が,そのまま当てはまっていると思うのです。 定義といったらあまりにも硬い表現ですが、要するに[幸せを探そうとすれば、どこにでもある]ということです。

星野さんは24歳のときに体育教師として指導中に頚椎損傷をし、首から下の運動機能を失いました。だから絵や詩は筆を口にくわえて描いています。しかし、初めのころには、思うように筆を運ぶことができず、お母様にその苦しさをぶっつけることもありました。それでも、自己表現をする手段として絵と詩を選び、努力をしてハンディを乗り越えてこられたのです。今では、多数の詩画集を出版し,私を初めとして多くの人たちが励まされています。さらに、今では小・中学校, 高校の国語,美術など15の教科書に作品が使われています。先に挙げた『詩』は,おそらく星野さんが辛い時に書かれたものだと思います。というのは、現在星野さんは彼が絵を描くときには,筆に色をつけて, 彼の口まで運んでくれる良き配偶者に恵まれていらっしゃるからです。

今では、星野さんの詩画集で多くの人が[生きる勇気]をもらっています。ここに書かれている詩は,いろいろなジレンマがある生活の中で母親と共に昼ごはんを食べる時に,星野さんは『口の中に幸せが舞い降りることもある』と感じられたのでしょう。私は今まで干したいわしを食べる時に,このような気持ちになったことはありません。このような何でもない風景の中で、しかも辛い状況の中で、それでも幸せを感じ、母親の自分に対する愛情を感じることができるとは、なんと素晴らしく幸せなことでしょう。だから、[投語]で親友の舘内さんが[うらやましい限りです]といっているのです。この言葉は、舘内さんの心の底から出てきた真実の言葉だと思います。

ただ単に、昼食に母親二人で2匹のいわしの干物を食べることに幸せを感じる星野さん。とても大事な生き方をしている人だと思うし、苦しみや悲しみを多く味わったからこそ、ささやかな[なんでもないこと]の中に幸せを見つけ出す[才能]が育ったのだと思います(あえて、私は、星野さんが苦労しながら努力をして育てた星野さん独自の[才能]だと思います)。
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by eastwaterY | 2007-01-23 18:49  

 「家族とは?」~その1~

「家族」というとき、人はどの範囲までを家族というのでしょうか。T.C.アントヌッチらによると、家族を精神的な安定の機能を持っていると捉え、役割に依拠しない安定したコンヴォイのメンバーとして家族、配偶者に加えて親友を入れています。(吉田あけみ他編著『ネットワークとしての家族』からのまとめ)。 私はこのことが、とても理解できるのです。私には中学以来50数年、家族以上に付き合っている友人が歩いて3分くらいのところに住んでいます。お互いに心を通いあわせ、辛いときには何も隠さず話すことができ、うれしいときには自分のことのように喜ぶことができます。だから、友人が家族と共にコンヴォイの一番内側に位置づけられていることが理解できるのです。

さて、私が考える「家族」というときに、どうしても家族として切りはなすことができないところに位置づくのが、結婚以来ずっと飼い続けてきた5匹の「愛犬」です。犬嫌いの人から言わせれば「犬が家族?」と言われるかもしれません、お互いに心を通わせ、分かり合えることから言えば、ある意味人間以上に人間らしいともいえます。 私にとっては、喜びも悲しみも共有できる「家族」なのです。今、その家族がいません。結婚43年までは、次々とこの「家族」が入れ替わり、悲しみと喜びが交代でやってきました。人間の方が長生きなのだから、こちらが生き残る事は、当然と思っていても、その家族を失うたびに「もう、こんな思いはいやだ」と思ってきました。

 そして2年前、5代目の「家族」が逝った後、今はもう6代目を飼う心境にもならず、そうはいってもたびたびこの「家族」たちを思い出しています。 5匹の「家族」と共に過ごしてきた中で、特に印象深いのは3匹です。まず、3代目の「さっちゃん」。 私たちが可愛がりすぎたせいか、どうも彼女は自分を人間だと思っていたようでした。犬を見ればほえますが、人間の子どもに対しては、なんとも言えず、人懐こかったのです。しかし、5匹の中で一番辛い思いをしたのは、「さっちゃん」でした。当時、子どものいなかった私たちは、手のひらに入るほどの小さいときから、まさにわが子のように「掌中の珠」として育てました。

 しかし、育て始めて8年目、私たちがニュージーランドに駐在員として赴任することになり、連れて行くことはできなかったのです。幸い、友達のYさんが「さっちゃん」を預かってくれることになり、いよいよ別れるという3日前、私は「さっちゃん」と共にYさん宅へ行き、徐々に別れの準備をするために宿泊しまた。まず、戸外につなぎ、その家の環境に慣れるようにしました。そっと窓から外を見ると、落ち着かず、そわそわ、いらいらしているようでした。 私がついYさんと話すときに大きな声を出したときでした。「ワン、ワン」。まるで「私はここよ。お母さんどこ?きてよ」といっているようでした。「さっちゃん、いい子をしていてね。お母さん言ったでしょ」と返すと、すぐ静かになり、それ以後一切鳴くことはしませんでした。Yさんと「さっちゃん」のけなげさに涙しました。 

私は、Yさん宅へ行く10日くらい前から「さっちゃん、お母ちゃんはね、さっちゃんを人にあげるのでもなく、捨てるのでもないよ。どうしても行かなければいけないので、いい子をしYさんのところでお留守番をしていてね」といいきかせていました。なんと、それがちゃんと理解できていたのです。

そのことは、私がYさん宅を去るときのことについて、後ではっきりと分かりました。Yさんにに「よろしくお願いします」と頼み、「さっちゃん」には会わずに、Yさん宅を後にました。そのとき、「さっちゃん」は「ワン」の一言も言わなかったのです。私は別れが辛く、何度も後を振り返り、ブロックの塀の向こうにいるであろう「さっちゃん」に思いを馳せていました。自宅に帰り、すぐにYさんに電話をしたら、「さっちゃんねー、あなたが帰ってしばらくしたら、あまりに鳴くので、外に出してやったら、ぐんぐん私を引っ張って、とうとうあなたが乗ったバスの停留所まで行ったよ。我慢をしていたのよね。」「さっちゃん」は、きっとブロック塀の穴から、私が帰るのをじっと見ていたのだと思うのです。鳴くと私が困るので、精一杯我慢をしていたのだろうと思うのです。そして、とうとうたまらなくなって、バス停まで私を追っかけていったのだと思うのです。

ニュージーランドに行ってからも当分の間「どうしてるだろう?」とばかり思っていました。ある日、録音してもっていった小椋桂や井上陽水の曲を聴こうとテープを回したら、なんと、「さっちゃん」の吠える声が入っていたのです。それから2週間くらいは、音楽より「さっちゃん」の声ばかりを聞いて過ごしていました。

 こうして、2年後、帰国してさっちゃんと会うことができましたが、それから4年後の夏に彼女は具合が悪くなってしまいました。その頃、私は児童英語教師として日中は、ほとんど不在だったのすが、7月にたった1回、1日中家にいることができた日に、どうも朝から様子がおかしいので、クーラーのきいた部屋に彼女を入れ、離れないようにしていました。突然、何かを探すような仕草をするので、抱いてやったら、すぐに痙攣がきて、がっくりと頭を落として息絶えました。私は以前から、「さっちゃん」が、絶対に私の腕の中で死んで欲しいと願っていました。だから、不在が多いことに不安感をもって日々を過ごしていたのですが、私の思いはちゃんと「さっちゃん」には届いていたのでした。

「さっちゃん、本当に有難うね。お母ちゃんは幸せだったよ」と、私は12年間私を十分に癒してくれ、愛してくれた「さっちゃん」に心から別れの挨拶をしました。
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by eastwaterY | 2007-01-22 22:06