人とつながる"結”日記
2011-05-31T07:07:16+09:00
eastwaterY
いろいろな人とつながりながら、生きていきたいと思っています。
Excite Blog
イタリアへの旅(その1)
http://eastwatery.exblog.jp/16036310/
2011-05-27T17:02:00+09:00
2011-05-31T07:07:16+09:00
2011-05-27T17:02:25+09:00
eastwaterY
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1日目:
4月23日4時半に起き、広島空港から9:20発の中国東方航空で上海まで1時間40分の飛行時間、ここではトランジットで上海発12:30発でローマへ向かいました。広島からのトータルの時間はせま~椅子に座って14時間10分の飛行時間でした(機内食は昼食・夕食の2回。日本食(?)と中華料理のメニューから選びました)。19:00前にローマ着陸後は、迎えの専用バスでホテルへ。到着後、36人のツアー客は皆ぐったりとして休むだけでした。
2日目:
バイキングの朝食後、7:30ホテルを出てローマテルミニ駅へ行き、9:15分発のユーロスター・イタリア(2等車)に乗ってミラノへ出発。この電車には、食堂車もあり、車内販売もありました。車内販売では主にスナック、コーヒー、飲料水(水道水は×)を含むソフトドリンクなどに加えて、イタリア名物のワインなども販売していました。特に印象的だったのは、売り子の中年男性が片言の日本語を上手にウィットをきかせながら操り、ニコニコと笑顔を振りまくこと、それに連られて、もう一人の若い女性がヒマワリのように明るい笑顔を振りまいていた事でした。
ここでは、ちょっとした事件がありました。いかにもイタリアらしい「スリ」の出現でした。私達のツアー客の一人は電車に乗るなり、カードを盗まれましたとのこと(カードNOなどを控えていて、30分後にはカード使用不可能となる手続きが済んだとのこと)、次の人は「荷物を上の荷物置き場に両手で置くように」とジェスチャーで言われたこと、彼女は怪しんでそうしなかったので大丈夫。次の男性は、腰につけていたウェストポーチを探られたこと。その次が私がそのスリに出会ったのですが、どうも行動があやしいので、英語でいろいろ質問し、最後に「チケットをもっているの?」と尋ねた途端二人の若い女性スリは、すごい勢いで列車から出ていきました。イタリアの「スリ」は有名ですが、イタリアでの旅の1日目にスリに会うとは思いもしなことでした。 それ以後はみんなは肩越しに斜めにバッグを持ち、慎重に行動したので、スリ騒動は問題なくなりました。。
次は、3時間のミラノ観光。ミラノのシンボルのドゥオーモ(大聖堂)は1386年から500年を費やして1813年に完成した建物です。天を突き刺すように伸びた135本の小さな尖塔と天井を飾るステンドクラスは、ゴシックの一大傑作と讃えられているいるそうですが、まさに、その正面に立つと、豪華さととてつもない大きさに圧倒されました。内部には巨大なパイプオルガンとキリストの布教活動が描かれた数え切れないほどのステンドグラスがありました。ステンドグラスは、製作された時代によって、絵の描き方や色などに特徴があり、その美しさにただただ、見とれていました。
次には、ヴィットリオ・エナムエーレ2世アーケードでのショッピング街を散策しましたが、多くのブランド店とカフェなどが軒を連ねていました。(私達は、名物のジェラードを賞味しました)。このアーケードは、イタリア再統一を祈念して、1865年から12年かけて造られたとのこと。市民はこのアーケードには誇りをもって「ミラノの応接間」と呼んでいるとのことでした。ミラノには、かの有名なベアとリーチェが寄進したサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会があった場所に建てられた「オペラの殿堂」スカラ座を外側からの見物。殿堂という名前とは裏腹に、とても地味な外観でしたが、掲示板には次回のオペラコンサートの広報がしてありました。
昼食にはミラノ風カツレツ(フライパンにバターをひいて焼く料理。ミラノ風は、黄金色を示し、焼き色が美しいものでしたが、私にとっては油っこくて少ししか食べられませんでした)
3日目:
8:15専用車のバスでベネチアへ出発。「イカ墨のスパゲッティー」の昼食後、世界遺産ベネチア観光(1時間半)として、サンマルコ大聖堂を見学。この大聖堂は、828年、アレキサンドリアから運ばれた聖マルコの遺骸を安置する場所である礼拝堂として建築されました。976年に焼失後は、ベネチア共和国の威信を示すため1063年から400年がかりで大聖堂に建て替えたもので、数少ないギリシャ聖堂としてモザイク模様が荘厳でした。
そして・・・ベネチアで楽しみにしていたゴンドラへの乗船でした。近年、ベネチアは少しずつ海面が上がりつつあり、特に大潮の時には、家の中に水が入ってくる状況があるので、いつまで水上都市のベネチアでの旅情を満喫できるかどうか定かではありません。
ゴンドラのルートは決まっておらず、行先は、水かさや天候で漕ぎ手が決めるとのこと。サンマルコ広場やリアルト橋(1591年に建造された大理石の太鼓橋)などをくぐりながら、周囲の古い建物などを眺めつつ、その一方で漕ぎ手の男性の「オーソレミヨ」などの歌を聴きながら風情のあるゴンドラ紀行を楽しみました。一つの船では6人が定員で、船の飾り方は漕ぎ手の趣味によるものか、いろいろな彫刻がされ、椅子などもなかなか凝ったものでした。
3日目のランチは、入り組んだ小路を何度も曲がりくねりながら行ったひなびたレストランで
の「イカ墨スパゲティー」で、みんな食べ終わったら、歯が真っ黒、お互いに口の周りにイカ墨をつけた相手を見て大笑いでした。味は、広島で食べても同じかな?と思う程度でした。
長くなりました。イタリアへの旅(1)はこれで終わりとします。読んでいただいてありがとうございます。
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長い間、ご無沙汰をしていました
http://eastwatery.exblog.jp/15961929/
2011-05-13T02:32:00+09:00
2011-05-19T20:08:50+09:00
2011-05-13T02:32:50+09:00
eastwaterY
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理由は、まず、広島では市長選挙があり、ボランティアとして関わっていた事、その後からは、小学校3年生のクラス会「古希の会」の幹事として文集づくりをしていた事、
そして・・・・・その後、4月23日~5月1日までイタリアへ旅行をした事、その後もいろいろあって、やっと今日ブログを書く余裕と時間ができました。
前述のことは、おいおいに書いていきたいと思います。まずは市長選挙について。選挙については、1年半くらいは、いろいろ書いていけないとのことなので、詳しくは書けませんが、私はボランティアの人たちのコーディネーターなどを主として活動しました。
広島市は元秋葉市長が2期(8年間)にわたって市長を務めてきましたが、3期目を見送られたことにより6人の立候補者により市長選挙がおこなわれました。
投票は、4月10日でした。私が後援したのは元広島副市長の女性でした。年齢は45歳、
市長候補としては若くても、知見・判断力・行動力・経験などは素晴らしく、そういう経歴であっても謙虚で、まっすぐな生き方をしている人でした。
事前に、8人の友人と初対面の彼女と会って、いろいろ話し合う中で「この人に広島市長になって頂きたい」という思いが強くなりました。3月から1カ月余り、時間が取れない時を除いて、私の生活は、ほとんど選挙の応援一色となり、毎日睡眠時間が5時間くらいで、4月10日まで活動してきました。
4月10日の選挙結果は、次点でした。最終的には6人の候補者の中で、当選者の松井現市長と豊田麻子さんの一騎打ちとなりました。保守的な広島を変えたいという思いで、活動してきましたが、残念な結果となりました。現在は、選挙につてい詳しく書くことが出来ないので、ここまでです。
しかし、私個人としては、人生の中で貴重な体験をした日々でした。夫が「応援をするなら徹底的にやること」と言って後方支援をしてくれ、人手の要る時に手伝ってくれました。
ボランティアのまとめ役は、私が非力で思うように後援することができなかったのは、本当に申し訳ない気持ちです。ただ、一つの目的・目標に向かって生活した日々は充実していました。
その上、今までに出会った事のない素晴らしい人に出会い、その人のために無私の気持ちで応援できたことは、人生の1ページに残る思い出になりました。
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思いは伝わる
http://eastwatery.exblog.jp/15559812/
2011-02-24T00:47:00+09:00
2011-02-24T00:48:10+09:00
2011-02-24T00:47:17+09:00
eastwaterY
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まず、初めに野ボタンの花。この花は、本来なら秋口に咲くのですが、昨秋には蕾をつけただけで咲くところまでは行きませんでした。4年くらい前、園芸店で小さな野ボタンの苗を見つけ買い求めました。この苗はニュージーランドでは、大きな灌木となって品の良い紫の花をつけており、その木が、そこ、かしこにある情景が忘れられず、買い求めたものでした。
2年間は、秋になると次々と花をつけていましたが、昨年は、1つの花をつけただけで、冬の間はずっと屋内に置いて育てていました。今年も秋にも、そのような感じでしたが、今年の私の思いは違っていました。今年は、どうしても多数ついている蕾は絶対に咲かせてもらいたい、咲かせたい、という思いが強く、寒くなってからは、屋内に入れても、天気が良く暖かな日の日中は玄関わきの日当たりのよい所に出し、午後3時~4時ころには屋内に入れるという繰り返しを毎日飽きることなく繰り返しました。 そうしたら、なんと健気にも小さい花ながら、高貴な紫色の花をどんどん咲かせ始め、これからも咲くであろう蕾が一杯ついています。「頑張って咲いてね」「良く頑張って咲いたね、嬉しいよ」と話しかけながら育てた甲斐がありました。
次は、ジンビジュムという蘭の一種です。これは、28歳の息子が生まれた時、夫の会社の方がお祝いとして下さったものです。28年の間には紆余曲折ありましたが、今では3鉢に株分けをして、その株一つにピンクの花1本をつけています。頂いて5年間くらいは、お正月の活け花用になる時期に5本位咲いていましたが、最近はやっと1本。それでもよくもまあ、28年間も生きてくれ、律義にお花をつけてくれるこの蘭には、大感謝をしているし、身内のような気がします。
そして、最後の「思いが伝わる」のは、私たちのウォーキングコースの1軒の家に飼われている柴犬の「ちくわちゃん」です。我が家は結婚以来40年近く、合わせて6匹の犬と家族として共に生きてきましたが、6年前に亡くなったハッピーちゃんを最後として、これ以後飼うことはあきらめました。というのは犬の寿命を15年と考えると私たち夫婦が最後まで世話をしてやることは無理だと思ったからです。
だから、それ以後は近所の犬を可愛がらせてもらうことにとどめていました。それだけでなく、ウォーキングコースを始めて「ちくわちゃん」に会い、親しくなりたいと思うようになりました。ところが、この犬は、人になかなかなつかない事で有名な犬でした。でも、名前を呼べば、ちょっと眼だけは合わせてくれるので、通るたびに座っていようと、寝転んでいようと「ちくわちゃん」と呼び掛け始めて6カ月たったころから、私たちの足音が解るのか、座って待ってくれるようになりました。
そして・・・・ついに「こっちへおいで、ナデナデしよう」と言うと、寄ってくるようになりました。そして、「もう行くからね。バイバイ」と言うとすり寄ってきて、「もっと、もっと」とねだるようにもなりました。
ここ1週間、天気の良い日が続いたので、「ちくわちゃん」は寝そべっている事がよくありました。そういう日は、私を見つけると、お腹を天に向けて大股を広げてナデナデをしてもらうのを待っています。 これは、もう完全に私に心許している証拠です。ここまで来るのに6カ月かかりました。 でも「ちくわちゃん」のお蔭で、どれだけ私たちのウオーーキングが楽しくなったか、実際に言葉を交わす事ができなくても、お互いの思いが通じることが、こんなに嬉しいものなのかと喜び、ちくわちゃんに大感謝です(ちなみに、「ちくわちゃん」は男性が、苦手なのか、夫とは目を合わせても、まだナデナデまでには、もう少し時間がかかりそうです)。
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映画「太平洋の軌跡~フォックスと呼ばれた男」
http://eastwatery.exblog.jp/15558817/
2011-02-23T22:16:00+09:00
2011-02-24T08:27:17+09:00
2011-02-23T22:16:47+09:00
eastwaterY
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あらすじとしては・・・・・
1944年、サイパン島を統治していた日本軍でしたが、戦況の悪化により、守備隊の幹部たちは特攻命令を出すだけだして自決してしまいました。そのために、民間人も次々と自決をしてしまうという悲惨さ。しかし、生き残った大場隊(47名)は、隊の皆とサイパンの森のや林の中に逃げながら、孤独な戦いを続けていました。隊の中には自決を考える人たちもいましたが、大場大尉は「最後まで生きることを考えるのだ、生きて日本に帰ろう!」と何度も全員に語りかけていました。時には、アメリカ兵と戦わないために知恵を出して森の中に罠を張るなどして逃げているうちに、生き残りの民間人の団体数十人と出会い、彼らをも守りながら戦う事になりました。民間人の中には、攻撃的な性格の一団もありました。彼らは「米軍と戦い、日本が勝利するのだ」という思いで、すぐに銃を打つなど、大場大尉の思いをなかなか理解できない人たちでした。
その一方で、アメリカ軍は、絶望的な状況でも投降しない日本軍にいら立ちを覚え、殲滅を試みますが、先述のような大場大尉の巧みな戦略に翻弄されることになりました。そうはいっても、日本側は、日に日に食料や弾丸もなくなり、生きていくのも難しい状況になった頃でした。
「日本は降伏したので投降するように」というビラがヘリコプターによって避難していた洞窟の辺りにばらまかれました。このビラを信じるか、信じないか、「このビラをどう判断するか」大尉としては大きな決断を迫られます。いろいろな意見が出る中、大尉は、まず「全員が生きて日本に帰る」という思いを変えることなく、ビラを信じアメリカが投降した日本人を収容している収容所に行き、アメリカ軍のサイパンを支配しているトップの考えを伝える収容所長と話し合いました。
結果的には投降し大尉の軍だけでなく民間人も含めて自決した軍人一人を除いて無事日本に帰ることができました。ここまでに至るプロセスは涙なしでは見られない事が多くありました。アメリカ人が大場大尉を「フォックス」としたののは「狐のように賢い」という意味で、大尉に敬意を表してそう呼んでいたということでした。
大場大尉は最後まで日本人のプライドを捨てることなく、アメリカに対しても礼を尽くし、人々の命を守り抜きました。その陰には「人の命がいかに大事か、これを守り抜く」とする一貫した彼の哲学と人類愛があったのです。
この物語は、原作は、ドン・ジョーンズ著タッポーチョ 『敵ながら天晴』 大場隊の勇戦512日(81年刊行、現在は絶版)。著者がアメリカ人だということには、驚きました。この方が、この本を出さなければ、大場大尉の勇気ある行動は、日本では知られなかったであろうと思いました。そういう意味でも、原作者のドン・ジョーンズ氏に感謝の念をもつと共に彼自身も大場大尉に対して尊敬の念をもっていたことが伺われます。
この映画は、決して悲劇的な話ではないし、「お涙頂戴」な演出もなく、お国のために死ぬことに対する美談としてもいません。この映画で私が感じたことは、どんな団体(政治、企業、活動)においても、いかにトップの人格と判断が重要かということです。
さらに、「戦争について」、「日本の歴史教育について」は戦後の学校教育の中では近代史が詳しく教えられていません。 そういう意味からも世代を問わず、一人でも多くの日本人にこの映画を見て欲しいし、見るべきだと思っています。そこから「戦争することの愚かさ」と「いかに平和であることが大切か」、そして「第二次大戦で戦死したり戦った人たち、ヒロシマ・ナガサキで被爆死した人たちの犠牲の上にある自分の命」を考えてほしいと思いました。
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人の生き死にに人為ははたらかない
http://eastwatery.exblog.jp/15514787/
2011-02-15T23:33:00+09:00
2011-02-18T02:24:41+09:00
2011-02-15T23:33:55+09:00
eastwaterY
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この相談に対して、回答者の社会学者の上野千鶴子さんは「ご長男に子どもがいないことを気に病んでいるのはあなた自身では? もしかして、子どものいない女は、女として一人前ではないとおもっていませんか?」と疑問を呈しています。そして、最後に上野さんは「昔も今も子は授かりもの。
その気になったからといって計画通りにできるわけではありません。人の生き死にに人為が働かないことに、もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」と結んでおられました。
この結論を読んで「さすが、上野千鶴子さん!」とすっきりしました。上野千鶴子さんは社会学者であり、専攻は家族社会学、ジェンダー論、女性学。そして、63歳のこれまで事実婚はあったようですが、独身を通しておられます。これまでの日本では、独身をとおす、子どもを育てていない、という理由で上野さん自身、理不尽なことを人々からいわれたことがあると想像できます。そういうことの繰り返しの中から先の「人の生き死にに人為がはたらかないことに、もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」という考え方が出たのでしょう。上野さんが、述べたかったことは、この相談内容だけに限らず日本の人々の『一般の人々の常識』から外れた考え方や生き方に対してではないかと、私は思います。たとえば、外国人、在日外国人、性同一障害の人々や未婚の人、そして既婚であっても子どものいない人などに対しては、遠慮なく相手が傷つくような言葉を発します。人一人ひとりには、それぞれの生き方があり、人と同じように生きようとしても各人の事情により、そのように出来ないこともあるのです。上野さんが「もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」と書いておられるのは、上述のことではないでしょうか?私は謙虚であることだけでなく、もう一つ「思いやり」をつけ加えることだとと思うのです。「思いやる」=(イメージをする)でもいいと思います。
私自身についても、20年間子どもに恵まれなかったことに対して人々からは「子どももいない人には分からない、どちらが悪いのかしらないが自分たちは結婚後すぐに子どもができた、子どもがいない女性は一人前ではない」など無遠慮に言われ続けました。その後、長男を授かったら、今度は「子どもが一人ではかわいそう、二人は居なくては」と、人の事情も考えず、平均的な家族像を頭において、平均から外れることは、おかしいようなことを言われました。 しかし、私のこれから述べる二つのこと出来事から上野さんと同じように考えるようになりました。それは・・・・
夫は、輸出関連の仕事をしていたので、日本にいることは少なく、同居の義母(私にとっては姑)が1週間の病の末、亡くなった時には帰国できず、夫は死に目に会えず、私が喪主として葬式を出しました。
その後の、長男誕生の時には、夫はヨーロッパへ出張中で私一人で出産し、4日後夫は初めて長男と対面をしました。結局、夫は人生の中でたった一人の母の死とたった一人の息子の誕生に出合うことはなかったのです。この二つのことから、それ以後の私は「人の生死は自分も含めて、自分で何となかなるものではない。これからは、とにかく自分にも人にも精一杯できるだけのことをして生きていこう」と思えるようになりました。だから、上野さんが「人の生き死にに人為がはたらかないことに、もうすこし世の中のひとびとが謙虚であってくだされば、と願います」と言われたことが、すーっと何の抵抗もなく頭と心の中に入って来たのだと思いました。
まさに、上野千恵子さんに大拍手を送りたい気持ちです。]]>
目の不自由な方には、ハードとソフトでサポートを
http://eastwatery.exblog.jp/15502118/
2011-02-13T23:21:00+09:00
2011-02-16T23:52:23+09:00
2011-02-13T23:21:51+09:00
eastwaterY
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その事故を受けて、目白駅では新たにでこぼこが分かりやすいように突起の数が少ない新型ブロックへの取り換えが始まったそうです。確かにハード面では、これ以後悲劇的な事故は減少するかもしれません。
しかし、私がもう一つ、皆で考えていきたいことはソフト面、心の問題です。目の不自由な方に出会った時、例えば、横断歩道で手をとって共に歩く、電車で出会えば空席に案内するなどのサポートをすること。さらに、ホームに降り立った方には、ちょっと時間を割いて、点字ブロックの位置に案内する等、手助けをすることが、どれだけ目の不自由な方の心が安らぎ、安全が確保されるか、と思います。
私の何度かの経験からいうと、目の不自由な方々は、どの方も隣に私がいることで穏やかな表情で、いろいろな話をして下さいました。中には、エスカレーターから降りる時に後ろから押されて何度か危険な目に会った経験を話されました。そのようなことをする人がいることに驚いたと同時に、自分のことだけでなく他者の身になって考え、行動することが、どれだけ大事か、と思いました。
それ以来、私は、心の目をもって目の不自由な方々とお付き合いをして行きたいと思いました。
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女性のエンパワメント支援セミナー<2>
http://eastwatery.exblog.jp/15479577/
2011-02-09T23:13:00+09:00
2011-02-11T14:32:59+09:00
2011-02-09T23:13:26+09:00
eastwaterY
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現在、女性の働き方は多様化し、選択肢が増えた一方で女性たちの多くは、派遣やパート等の非正規労働者として劣悪な労働条件を強いられ解雇されやすいなど、不安定な弱い立場に置かれています。法律・制度面が整備されても、その恩恵を受けられるのは限られた層にとどまり、正規労働者との格差は大きな社会問題となっています。
そこで、シンポでは女性労働の専門家が非正規雇用や格差等の問題を通して見えてくる働く現場の問題や課題について様々な角度から検証し、解決への糸口を探っていくことを目的として開催されました。
非正規の問題は決して女性だけの問題ではないのです。男性も女性も、働く一人ひとりが不安定な立場に追いやられることなく、自分の選択で、自分らしく働き続けることができる社会を実現するために必要とされることは何か? 「働くこと」を通じて、「これからの時代をどう生きるか」を5名のシンポジスト(放送大学教授、ジャーナリスト、日本労働組合総連合会副事務局長、評論家、企業の顧問)によりパネルディスカッションが行われました。
5人のシンポジストの発表をすべて伝えるのは、多すぎるので、私が学習したと思ったものを書いていきます。
宮本みち子さん(放送大学教授)
①非正規雇用化は男性と比べて女性の方が顕著→事務職縮小、サービス職の
増加(大卒女性1/3)
②日本型終身雇用の変容→中核の人材だけ正社員(周辺を女性の非正規雇用)
①、②の結果、「女女格差」(女性の中の格差拡大)・・・・
これらに加えて、現代は
③「晩婚化と非婚化」がある。これは、日本女性特有の標準的ライフコースの消滅・
リスクの拡大の実態。
④定まらい女性の生き方→母親は社会の変化に気づいていない。娘の学業成績には関心大。
しかし、就職については、「就職より結婚の方が大事」となる。
⑤女性たちは、今の給料では結婚後は共働きが必要、生活基盤や子育てについて不安感あり
⑥シングル女性の増加、母子家庭の増加による女性の貧困化→女性の経済力は緊急課題
●これらの事に対して、どうすればよいか? 目指すべき方向は?
・企業の多様性、女性のライフサイクルに添った働き方の多様化、正社員・
非正社員、 フルタイマー・パートタイマーの格差是正・・・・・・・それに加えて
・個人の自立・自律を目指して力強く生きる(アメリカ型、自己責任型)か?、
国民共助のシステムをつくる(北欧型、国民負担率70%を受け入れる)か?
・これまでの終身雇用の会社の人間関係等が重要であったが・・・・・・
これから → ①人との関係を築く力、②人を見抜く力、③移動することを前提に、
自分に役立つ資源(人・情報)を確保する力 ・・・・・・を育てる
●これから生きていくためには満足度・幸福感を高めることが重要
・幸福感:社会的つながりは幸福感を増加する
・会社と家庭以外の生きる場を作る → 多面的な生き方を求める。
つまり、人は結婚・家族・身内・会社以外の社会を豊かにしなければ生きられない
そのためには → 無縁社会に歯止めをかける営みへ、自ら参加すること。
大学生の就職活動において、学生たちは自分の考え方というより、両親の考えを重要視する傾向にあると聞きます。そうであれば、いつまでも日本の高度成長期の価値観やものの考え方から職業を選択することになりかねない。いわゆる「誰が聞いてもわかる有名な会社への就職」「安定した大企業や公務員」などなど・・・。学生たちには日本だけでなく世界の国々の現況を学び、そこからこれからの自分の人生を考えて行く力強さ、逞しさが必要と考えます。
また、若い世代は人とのつながりが希薄となっていますが、宮本さんが提言して
いるように、多面的な生き方をするためには、「社会的なつながり」を大事に
していくことを認識することが必要であり、社会の中でお互いが支え合い助け合っ
て生きていくことが求められます。
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働く女性のエンパワメント支援セミナー(女性と仕事の未来館)<1>
http://eastwatery.exblog.jp/15420602/
2011-01-30T19:13:00+09:00
2011-02-01T16:04:29+09:00
2011-01-30T19:13:08+09:00
eastwaterY
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1日目は若年女性を対象の「若い女性のキャリア意識を学ぶ」をテーマとして”仕事をもつことへの思い~若年女性を中心とした職業キャリアとライフキャリアの選ばれ方」といテーマで独立行政法人労働政策研究・研修機構特任研究員の奥津眞里さんが、テーマに関する多様なデータを示しながら時代の変化による女性意識や働き方の変化を話されました。
女性は結婚、出産年齢、雇用情勢、雇用のルール等によって男性より時代の変化に大きく影響を受ける傾向があります。しかし、1985年バブル経済の時、1993年バブルがはじけた時、2008年晩婚・晩産時代になっても統計的に見ると、「学卒後就職し、40代で再就職をする」という就職と再就職の時期は変化していないとのこと。ということは、結婚後、70%の女性が辞職するという趨勢は変化していないということです。但し、再就職の就労人口は増えていますが、それは非正規雇用と就労のチャンスが増えたという雇用状況の変化があるということです。
これまでの日本社会では「子どものいる女性が就労することに対して肯定的ではないため、結婚後退職することが慣わしとなっている事、社会制度の不整備」等もありました。
しかし、現代においては、女性は経済的理由により家庭の実質的経営者(責任者)として自分自身を考えている事と、自分の名前で職業や社会的活動などで社会とつながっていることが「幸福」という考え方も出てきたところは、以前とは異なっている、ということです。
大事なことは、女性が自分のライフキャリアを考える時には「何を大事にして生きるか」という価値観が重要であり、この事は就労に際して「子どもの成長と自分との関係」の中で決定されるということ。これは、最近そういう考え方になったのではなく、昔から女性は子どもの成長との関係を大事にしてきたということです。
この講演の内容はデータに基づいたものなので、理論的には良く解るのですが、ほとんどがデータの説明に時間を割いているので、もう少し具体的な話も聴きたかったと思いました。ただ、問題点としては、女性の働き方の典型が制度の整備が行われても、長年変化していない事でした。世間の目を意識する女性、他人の考え方に引っ張られる女性の意識が変わっていないということでした。もう一つの問題点は高学歴の女性ほど、
結婚に際して高学歴・エリートの男性と結婚する傾向があり結婚後の就職の少なさにもつながっているということでした。以前、女性の就労について日本と外国の女性を調査した場合、日本ほど高学歴でありながら、その能力を仕事に活かしていない国は少ないということをレポートしていましたが、まさに今回のセミナーでも同じ様な事が分かりました。
1日目の後半では「実践で学ぶファシリテーション」を参加型学習として行いました。自分が、参加型学習形式の講座の時にファシリテーターとして、どのように関わるか、ということを学習しました。決められた時間の中で、提起されたテーマについて4~5人のグループへのファシリテーターとしてどのように提案したり、考えるきっかけを与えるかが、重要です。常にグループ全体、一人ひとりから出されたアイディアをどのようにつなげ、形にしていくか。頭と心を連動させながらの作業は大変でした。
ホテルに帰ったら、ぐったりでした。せっかく上京しても、有名なスカイツリーを見ようとする気もなく、広島に帰って初めて、そのことに気づきました。
2日目は、「働く女性の現状とこれからを考える~非正規化する働き方のなかで~」をテーマとして、前半は「非正規雇用の拡大と課題」について鹿嶋敬大学教授の講演があり、後半は5名(放送大学教授、ジャーナリスト、日本労働組合総連合会副事務局長、評論家、企業の顧問)、のシンポジストによるパネルディスカッションが行われました。
それらについては、次回に書きます。
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働く女性エンパワメント支援セミナーへ参加してきました
http://eastwatery.exblog.jp/15382924/
2011-01-23T21:24:56+09:00
2011-01-23T21:24:59+09:00
2011-01-23T21:24:59+09:00
eastwaterY
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このことに着いては、明日書いていくつもりです。
今日は、2泊した「グレースリー田町」の部屋に置いてあった「きずな」の中からピックアップしたものを紹介したいと思います。
☆この小さ手に 大きな幸せを
生まれてきてくれて ありがとう
安らかな寝顔を ありがとう
愛らしい笑顔を ありがとう
元気に育ってくれて ありがとう
パパとママは
いつも あなたの幸せを 祈っています
☆結婚式 、 結婚記念日
かさね合う ふたつの人生
結婚式は ほやほや家族の誕生日
それぞれに 歩んだ人生が ひとつになって
今日から 積み上げてゆく 夫婦の記念日
笑顔あふれる家庭をつくりましょうね
いっぱい会話して
旅行も いっぱい行きましょうね
☆賀壽(Longevity)
言葉にできない 感謝の気持ち
正しい判断ができるようになるまではと
大きな合いで見守ってくれた父
自分の事は差し置いて
子どものことを最優先してくれた母
感謝の気持ちを込めて これから
じっくりと親孝行します
だから、 いつまでも長生きをしてください
この3つの☆は、人生の節目、節目で 自分とのつながり、絆に気づき、改めて
感謝の気持ちをもって「幸せ」に満たされる時の言葉ですね。
気持ちは、言葉で表わさなければ伝わらない。表す事が苦手でも「自分の言葉」で書くことで、きっと相手には伝わることでしょう。たとえ、携帯電話であっても伝えたい言葉だと思いました。
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伊達直人現象について
http://eastwatery.exblog.jp/15348057/
2011-01-17T13:03:22+09:00
2011-01-17T13:03:25+09:00
2011-01-17T13:03:25+09:00
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さて、伊達直人現象、本当にうれしいことです。「人間の心の中には、本来だれでも人や社会のために役立ちたいという気持ちがある」と、ある生涯学習研究者が言っておられますが、私もその考え方には同意します。
それが人間の本来の姿であると思いますし、最近の人とのつながりが希薄となっている現在、全く関係のない人に対して、少しでも幸せな気持ちになればるように・・・・という発想でこの現象が生じているのではないか、と思っています。
私どもは、もう10年くらい「(財)日本フォスター・プラン協会」が運営しているフォスターピアレンツとなって、今まで、3人のフォスターチャイルドのサポートしてきました。一番目はインドネシアの子ども、2番目はウガンダの子ども、3番目はパキスタンの子どもです。それぞれの子どもの状況によって違いますが、その子どもたちが自立するまで毎年年6万円のサポート費用を寄付しています。インドネシアの子どもは自立するまでサポートできましたが、ウガンダの子どもは、突然一家の行方不明となって、打ち切りを財団から伝えてきました。
私たちがしていることは寄付だけでなく、金額や品物が制限されている(宗教的なこと)のでその範囲内でのプレゼント、手紙などです。
それに対しては、チャイルドから生活の様子などを知らせる手紙や絵など、財団からの詳細なチャイルドの状況を書いたレポートが送られてきます。
私どもがフォスターチャイルドを育てたいと思ったのは、一人の子どもしか恵まれず、もう一人の子どもを持って何らかの形でサポート出来たら、と考えたからです。日本は少子化ですが、まだ、発展途上国の子どもたちからみれば、いろいろな面で恵まれています。子どもたちにとって一番大切なことは「愛されていると感じられること、自立のために教育を受けられる事』だと思っているので、フォスターチャイルドを選びました。実際に手紙のやり取りや財団からのレポートから、サポートをしていても家族の一員としての仕事を(何キロ先のところまで毎日水を汲みに行くとか、幼児の世話など、いろいろとあってまともに学校に行けない子どももいるのです。
私どもは、子どものサポートをすることが寄付ではあっても慈善事業とか、社会福祉とか上から目線とかは考えていません。とにかく、一人でも子どもが幸せになればという思いと、二人で一人の子どもを育てたいだけという思いがあるからです。また、6万円は、少し少額かもしれませんが、もう一方でユニセフへ引き落としで毎月1,000円とクリスマス時期のカード購入です。
寄付というものは、自分が出来る範囲で無理をしないで長期間続けていければいいと思っています。私の友人の中には、何人かフォスターピアレンツになっている人がいますが、そのうちの一人は外国出張の際にチャイルドに会いに行った人もいます。
私は、父を早くに亡くして母ともども経済的な問題が多々ありましたが、苦労とも思わず育ててくれた母のおかげで、人の温かさや人とつながることの素晴らしさを知ることが出来ました。・・・・・・ということで、私は夫の理解もあって、夫婦で多くの人にサポートしていただいた事を今、返しているともいえると思います。
(6万円という少額の寄付であっても申請すれば税金の控除もあります。ちゃんとその時期になれば「(財)日本フォスター・プラン協会から書類が来ます)
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超高齢社会の小規模多機能ケア
http://eastwatery.exblog.jp/15282683/
2011-01-05T22:34:00+09:00
2011-01-06T08:30:57+09:00
2011-01-05T22:34:22+09:00
eastwaterY
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私は数年前から「高齢社会をよくする女性の会・広島」の会員となっています。会員は100%近くが65歳以上の高齢者で、高齢社会をより良く過ごすにはどうすればよいかを、会員みんなで考えていこうとするものです。
過日、当会の主催で会員の数人が小規模多機能ケアをしている施設を見学し、その報告会がありました。小規模多機能ケアの機能は「一人ひとりの地域での暮らしを継続させるために、通い(デイ)だけでなく、泊まり(ショートステイ)や自宅での支援(ホームヘルプ)、住まい)グループホーム)などを一体的に提供する」施設というものです。この施設の始まりは宅老所(民家などを使用し、家庭的な雰囲気の中で一人一人の生活リズムに合わせた柔軟なケアを行っている小規模な事業所)が認知症の高齢者やその家族の思いに向き合い、寄り添う中で、その方の暮らしを連続的に支援しようと、多機能化したサービスを包括的に提供することからです。
小規模多機能施設は広島市内では、約10か所あります。これらの施設では、地域との交流や地域活動に参加し、身体状況や希望を踏まえて「通い」「訪問」「宿泊」を組み合わせて提供しています。
「通い」を利用していない日は「訪問」を、というように、これまでの生活が続けられるようにしてあります。
また、症状によっては、「認知症グループホーム」への入所をスムーズに支援にするような取り組みが
なされており、顔なじみの人が担当者になって世話をしているので、認知症の高齢者には疎外感がないとのことです。
これらの施設では、「できる限り家で最期まで一緒に暮らす道を生きた」という形で親と子のきずなを強め、満足感をもたらす面があるということです。
ある宅老所を経営している人の話では「親と子が”つきあう”ということは”つきあいつつ”互いに人生の意味を”つきつけられる”ことでもあり、特養や病院など施設に親をぽんと入れてしまえば”楽になる”が、”共に生きあう”なかで"つきつけられることがない"ので、その分親子の絆が耕され、深い”魂の触れ合い”が失われるところがある」とのこと。
この経営者の言葉は、人生の最期が近い親を子どもが、どう送っていくのか、どうサポートしていくか、ということを表しています。「深い”魂の触れ合い”が失われる」と言う言葉が、いかに人間として生きていくか、ということに迫る言葉だと思っています。
そのような親と子の関係をつ続けて行くためには、小規模多機能施設にとっては、ボランティアとしての地域の人の協力が必要であり、受け入れる経営者側は「魂が大事」ということです。
つまり、人とのつながりがある地域づくりがあって初めて『介護される側、介護する側がこの町に住めて良かった』という「まちづくり」になるということです。また、地域住民のうち、さまざまな事情から「生き難さ」を抱えた人を受け入れ、その人たちの「人間力の再生の場」にもなりうるとのこと。その例として「生き難さ」を抱えた青年たちが元気になって高齢者と共にある姿を報告者は見せてもらった、と言っています。
事実、小規模多機能施設の小型の形式である「宅老所」の中には高齢者だけでなく障がい者や子どもなど、支援の必要な人全てを受け入れているところもあるとのこと。これらは、はるか昔、1980年代半ばから全国各地で始まった草の根の取り組みであるということです。あるいは。施設では受け入れてもらえない認知症高齢者に、少しでも安心して過ごしてもらいたいと願う介護経験者や元介護職員・看護職員などによって始まったのです。
しかし、宅老所にしても小規模多機能施設にしても、「利益が出にくい、デイサービス・宿泊のサービスの利用に定員制限がある」などによって、なかなか増えていかないのが現状です。これからますます超高齢社会が進むことが予想される日本においては、政治がこれらの施設の現状を知って補助金を出し、介護するもの、されるものが共に幸せな日々を送ることが出来るようにしてほしいと、心から願っています。
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中国新聞の「ジュニアライターが考えたこと」~平和カルタより
http://eastwatery.exblog.jp/15255551/
2010-12-31T23:41:19+09:00
2010-12-31T23:41:20+09:00
2010-12-31T23:41:20+09:00
eastwaterY
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書いていきたいと思います。
昨年の日本は、政治、経済、国際関係など、不安定な要素が多く、将来日本国の行方はどうなるか?と考えざるを得ない1年でした。
私は今年は「平和」を重点的に考えていきたいと思っています。
戦場カメラマンの渡部陽一さんが捉えていらっしゃる「平和」とは、「子どもの笑顔が見られること」だと言っておられます。そのために彼は、命を失う危険性を冒してまでも、「平和とは何か」を多くの人に考えてもらうために、危険な国でも戦場カメラマンとして様々な写真を多く撮っておられるのです。
昨年の広島は、例年より強く「平和」を考えるような機会が多くあったように思います。
秋葉広島市長が2020年のオリンピックを広島市で開催したいということを強く望み、
招致に関して、いろいろ活動している、ということがあると思います。
最近、地元の中国新聞が、<10代が作る平和新聞「ひろしま国」>という見出しで、広島の中高生に、仮想の国「ひろしま国」について考え、行動することを目的として、次のような試みをしています。
ひろしま国は子どもたちが生きる希望に溢れた仮想の国とし、公募したジュニアライター
20人が、週に1回平和に生きることをテーマに取材・執筆し、中国新聞に掲載しています。
以下は、「平和カルタ」と称して中高生が内容を書き、コメント(※)をつけたものです。
忘れないあなたと歩いたこの町を(中2女子生徒)
(※)大切なものは自分の近くにあります。自殺や戦争が絶えないのも自己を見失っているからでしょう。出発点を見直せば、何かみつかるかもしれません。
理解する気持ちが大切いじめの解決(中2男子生徒)
(※)いじめが原因の自殺が多いと感じます。いじめは先入観や思いこみからも始まりま
す。お互いに理解し合えば、いじめをなくせるのではないでしょうか。
ハッピーと皆が思えるために平和の輪を広げよう(高2男子生徒)
(※)幸せな人もそうでない人もいます。皆が平和で幸せな世界を作るために、平和を願う和を少しずつ広げようという思いを込めました。
「よろしく」と差し出した手は平和への一歩(中2男子生徒)
(※)お互いを知る、友達になる。国同士が付き合いを始める・・・・。すべての始まりは、
「よろしく」という言葉からだと思います。
明日もまた笑顔でいっしょにいられたら(中2女子生徒)
(※)みんなが心の奥で思っていることです。明日はどうなっているか分かりません。誰かと毎日笑顔でいられることが、私にとって本当の平和です。
中高生が考えたカルタの言葉一つひとつが、「平和とは?」を自分の言葉で言い表しています。「大切なものは自分の近くにある」という言葉。 そうですね。自分の近くにある、というのは、まず一番近い家族からスタートし、そこから大切なものはどんどん輪を描いて広がって行くと思います。最終的には、国レベルまで広がれば、「平和」に近づいてくるのでは?
ある人の講演会に行った時、一人ひとりの人が外国に大事な人をもつようにすれば、戦争になることはない」と言われました。私にもアメリカ、カナダ、ニュージーランド、ドイツなど少しずつ大事な外国人の友達がいます。それらの国で何か起こったら、自然に「どうか無事でありますように・・・・」と祈っています。
最近の日本では、人と人とのきずなやつながりがなくなり「無縁社会」という言葉が昨年を表す言葉のトップテンに入ってしまう国となってしまいました。人とつながりながら、支え合って生きていける社会にしたいですね。
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マイ・ハート『1ノート・1コイン』コンサートVo.19 in安佐南区(伝えよう笑顔と心)
http://eastwatery.exblog.jp/15229574/
2010-12-27T12:18:00+09:00
2010-12-27T21:45:08+09:00
2010-12-27T12:18:51+09:00
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マスターの沖田さんは、広島県三次市の出身で東京音楽大学を卒業後、ドイツに15年在住し彼の楽団に属してヴィオラを演奏していた人です。沖田さんは、ドイツに留学しておられた千春さんと結婚され、今では、千春さんと二人で広島県内の病院・学校・高齢者介護施設、はたまた植物公園動物園等で時にはボランティアとして、いろいろ活動していらっしゃいます。沖田さんのコンサートの特徴は、社会奉仕(ボランティア活動として)が多いのが特徴です。
毎年2月の「マイ・ハート・バレンタインコンサート」では、収益の一部を白血病の子どもたちの治療に使われる臍帯血の費用として、小児がんの子ども達を励ますためにマツダ球場に招待する、ということ等です。コンサートに行った人は、直接、自分がそういう行為をしなくてもコンサートを聴きに行くことで、社会奉仕に協力した事となり、有難く思っています。
今回は、安佐南区の区民センターで開催ということで、地域が限られているからか、2週間前に「来場者が少ないようなので、貴女の知人・友人に声をかけてもらえますか」というご依頼がありました。私は「マイ・ハート」の会員であり、何とかサポートをしたいという気持ちがあったので、安佐南地区の私が日頃から親しくさせていただいている知人・友人に、メール・ファックス・電話で声をかけたところ、直接当日券で来場してくださった方も含めて20名(孫の小学・中学・高校生・未就学児も含む)。が来場してくださいました。中には自分の友人にも声をかけてくださり、皆さんの温かな心と行動に「友達はいいものだ!」と大感激しました。
今日の演奏曲目は、「伝えよう笑顔と心~手話つき」(小学生・保育士さん出演)から始まり、前半はクラシック(G線上のアリア、弦楽四重奏変ロ長調(狩)全楽章、愛の挨拶など)、後半は、「赤とんぼ」、「ハッピー・バースディ・バリエーション」、「となりのととろ」、その後アンコールが3曲入り、「伝えよう笑顔と心~手話つき」を観客も一体となって手話をしながら、楽しみました。
歌と歌の間には沖田さんの温かなた人柄を思わせる心に響く小さな物語が語られるのも毎回楽しみにしているものです。以前のバレンタインコンサートでは涙が出るほど感動したのは、ヴァイオリン奏者の澄み切った高音の素晴らしさでした。今回は、最後に会場が一体となって手話をしながら歌った「伝えよう笑顔とを心」でした。
その歌詞は・・・・・・・
この世で一番輝くものは あなたがくれる その笑顔
この世で一番 すてきなものは 仲間を思うその心
伝えていこう その笑顔 伝えていこう その心
心がしぼんで 落ち込む時も 涙があふれて しまっても
君のまわりに 仲間はいるよ こんなにたくさんいるからね
守っていこう その笑顔 守っていこう その心
帰っておいで このふるさとに 都会の中で 疲れたら
君の登ったあのカシの木も 緑の風に揺れているよ
広げていこう その笑顔 広げていこう その心
伝えていこう その笑顔 伝えていこう その心
小学1年生と思われるような小さな子ども達等が一生懸命歌っている姿や歌詞の「優しさ、温かさ、つながろうという心」に感動し、少し涙がこぼれました。私の隣に座っている友人もしきりに涙を拭いているようでした。悲しくて泣くのではなく、感動して、温かさを感じて涙が出るのは、気持ちを爽やかにさせてくれます。
私の呼びかけで来て下さった友人たちからは、「心が癒された、やさしい気持ちになれた・・・・などなど」中には、「このようなコンサートがある時は教えてね!」など、たくさんの感想を頂きました。 友人との絆、つながりのありがたさを感じたコンサートでした。
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オノヨーコさんからの提案
http://eastwatery.exblog.jp/15187217/
2010-12-20T00:06:34+09:00
2010-12-20T00:06:34+09:00
2010-12-20T00:06:34+09:00
eastwaterY
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「自己否定感が強い人は、1日に3回、人が喜ぶことをすると、だんだん自己否定感は少なくなり、自己肯定感が増してきます」
オノヨーコさんは、ジョン・レノンさんと結婚する以前、一時期自己否定感が強く、どう生きていこうかと悩んだことがあるそうです。悩みに悩んだ末に、思いついたことが上述の事です。
私は、2月末まで2年半していた仕事の中で、自己否定感が強く、「自分で一生懸命やっている」という実感が持てるまで自分自身を許す事が出来ない時が長く続きました(もしかしたら、自分の能力以上の仕事だったかもしれません)。そして、今思えば、私自身にも多くの原因があったと思うのですが、事務局内のコミュニケーションがうまくいかず、その仕事が終了するまで人との関係に悩み続けました。
それまで経験した2つの職場では、休みが長いと早く職場に行って仕事がしたいと思うほど、人との関係も良く、仕事も意欲的に取り組むことができ、仕事の内容にも人との関係にも悩んだことはありませんでした。今、思えば、それはとても運の良いことだったと思えます。
それにしても、これまでの人生の中で2年半ほど、自己否定感を感じ続けたことはなく、また、仕事終了後10カ月たった今も、なかなか自己肯定感が戻ることはありません。何をするにも自信がもてない状態が続く上、以前ほど物事に対して意欲的になれないのは、どういうことか自分自身でもわかりません。
そういう時のオノヨーコさんの言葉は、私に対して励ましの言葉となりました。それ以前から「一日一善」は心掛けてはおりましたが・・・今度は3回。考えてみれば、「幼児の笑顔」には、心が洗われるし、明るくなります。「笑顔」を心掛けること、そして、自分よがりの善意ではなく(お節介ではなく)、人が喜んで下さることをしようとするところからスタートしようと思います。
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障がい者に対して、思いやりと行動する勇気をもとう
http://eastwatery.exblog.jp/15164734/
2010-12-15T22:40:00+09:00
2010-12-16T08:05:06+09:00
2010-12-15T22:40:00+09:00
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1回目は、市内電車に乗ろうとした時、体格のいい白い杖をもった一人の男性が、横断歩道で信号が変わるのを待っておられました。信号が青になった時、私が彼に「電車に乗られるのですか?」尋ねると、私と同じ方向の電車だったので、停留所まで彼と共に横断歩道を渡り、電車を待ちました。彼は、停留所に着くと堰を切ったように、いろいろと私に話しかけてこられました。初対面の私であっても誰かと話をしたかったようでした。
電車に乗車後も、自分の経験をいろいろ話してくださり、目的地で慣れた様子で下車されました。
2回目の出合いは、市内電車の繁華街の停留所で電車を待っている時でした。反対方向の電車の車掌さんが、一人の女性に話しかけていました。耳を澄ますと「どこまで行かれますか?」ということ。ふと、その方を見ると、白い杖をもっておられ、車掌さんの様子から、彼女の安全を案じていらっしゃる様子。そこで、二人の会話から女性の向かう方向が私と同じだったので、私は「同じ方向に行きますので、私がご案内します」とお二人に告げ、車中の人となりました。
この日も、女性は席に着くなり話し始められました。東京から広島に来て2年なので、まだ十分に広島の事が分からない事、以前、タイに行ったことがあるが、タイの人々は日本人より経済的には貧しくても、心は温かで、やさしい人ばかりであること。例えば、彼女が歩いていると、どこでもすぐ人が寄ってきて、お互いに何とか言葉を交わしながらでも、バス停などに連れて行って下さったり、目的地に連れてってくださること等を話し、その点では、日本では不自由することが多いことを話されました。
彼女と同じ停留所に着いて、道が右と左に分かれる時に「私はもう大丈夫です。すみません。
でも、どうして私は“すみません”と言わなければいけないのでしょう」と言われました。
私は「そうですよ。貴女は”すみません”と言われることはないのですよ」と言いましたが、彼女は無言で目指す方向に歩いて行かれました。
彼女が言ったこの言葉の意味は、とても深いと思います。目が不自由な人であっても、目が見える人であっても対等であるし、人間としてお互いに支え合うことは当然です。日本人は、よく「有難う」の代わりに「すみません」と言いますが、これは間違った使い方だと思います。「すみません」というのは明らかに上下関係があるように思います。私は、車中で彼女と日本人の場合、多くの人が同じであることを良しとし、違うことに対しては厳しい考え方をもっていることを話し合いました。私は、長い間子どもに恵まれなかったために、いろいろな人たちの差別発言に悩みました。そのことを話したら、彼女は「目が不自由である」ということで、差別を受けていることを私に話されました。そして、タイは経済的に恵まれていなくても人々の意識の中には、何ら差別意識もなく、思いやりのある人が多いのだと言われました。
そして・・・3回目は、アストラムラインという「広島高速交通高架鉄道」に乗る時に、50代後半と思われる目の不自由な男性に出合い、エスカレーターで一緒にホームまで行きました。その時、彼が言われたことは「エスカレーターを降りるときは怖いのですよ。私が慎重に降りるので、後ろから押されることです」ということでした。この日は、少しラッキーでした。電車に乗り空席を探していたら、女子学生らしい人が、さっと立って彼に席を譲って下さいました。彼に降りる駅を尋ねたら、私の降りる駅より早いことが分かったので、「電車を降りられる所までは、私がご案内しますから・・・」と予めお知らせしておきました。
彼の降りる駅となり、案内をして駅のホームに降りられたのを確かめました。その時、20人くらいの人が降りたのですが、誰も彼に関しては無関心でした。彼は、エスカレーターの方向を杖で確かめていらっしゃるようでした。私は、最後に降りた4,5人の人に向かって「どなたか、この方をご案内してください!」と言いました。その時、助けに来てくれた人は、先程席を譲って下さった人でした。考えてみると席を譲って下さる人ですら、その後彼が困っている様子に気づくことができなかった、ということは、やさしさが足らないのではなく、今までそのような場面に出くわす事が少なかったか、どうしていいか分からなかったのだと思いました。
相手を思いやることは、「想像力が必要」と言われますが、その思いやりを行動に移すには、人がしない事でも、自分を必要とする相手がいる時にはサポートする勇気がいるのだということ。そして、想像力や勇気は、生きてい行く中で家庭や教育の中で学んでいくこと、そして直接、そういう場面に出会ってその経験をすることだと痛感しました。
2回目に出合った女性が言われた「どうして私は“すみません”と言わなければいけないのでしょう」の一言が忘れられません。
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