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悲しく、さびしく、やりきれない事件1(2月18日)

 期限がが迫っている仕事を二つ抱えながら、仕事に集中しようと思うのですが、どうにも心がざわざわして落ち着かないのです。

 それは、昨日起きた「2名の幼児刺殺事件」の事が、頭からはなれず、「どうして、こういうことになってしまったのか?」という思いが、私の中で渦巻いているからです。

 この事件に関しては、今のところ新聞、TVからの情報しか分かりませんが、容疑者は中国に出張できていた日本人と知り合って結婚した中国出身の女性(現在は日本名に変更)ということです。彼女は、日本での居住期間は6,7年くらいで、その割には日本語が流暢に話せるとのこと。性格はおとなしいが、地域の人とのつながりを求めていたようだ、とは近隣の人の話でした。その人とは以前は親密に付き合いをしていたが、その友人がわが子を幼稚園ではなく保育所へ入所させたので、それ以後はそれほどの付き合いはなかったようです。

 その一方で、容疑者は、それ以後幼稚園のグループで当番を決めて3,4人の子どもを送迎するという方法に馴染めず、たびたび幼稚園にそのことを訴えていたということです。今朝のTVで心理面を研究している人が、「多分、ずーっと自分のいろいろな思いを長期間押さえていて、大爆発を起こしたような犯行だ」といわれました。私も同じようなことを予想していたので、そのコメントを聞いて「やはり」という思いでした。

 わが子を不条理な形で突然殺されてしまった家族の人たちの心情を思うと、やりきれない思いです。お互いが信頼関係で結ばれていたからこそ、支えあい、助けあって、順番を決め、子どもたちを送迎していたと思うのです。起こるはずのない、起こってはいけないことが起こってしまった・・・・・・どういえばいいのか分かりません。

 そして、私が思ったのは、なぜ容疑者が、ここまでの犯行を犯さなければならない状況になってしまったのか?それまで彼女の、周りの人は、彼女にどう対応していたのだろうか?ということです。彼女の周辺の人たちを考えた時、まず、彼女の夫はどうしていたのだろう?思いました。もちろん、地域の人間関係が希薄化していることも原因ですが、それよりも、何よりも一番身近にいる夫は妻の様子に気づく事はなかったのでしょうか?妻の気持ちを聞いてみる事はしなかったのでしょうか?子育ては、全て妻のやることであり、責任も妻にあるのだから、妻が自分で解決すべき事だと思っているのでしょうか?(私が、ここまで執拗に夫たちの考え方を書くのは、前述の事は日本人の夫たちの中に普通のこととして考えられていることだからです)。
今朝のTVでも、新聞でも「夫」については誰も何も言いません。新聞にその事は一つも出ていません。それは、夫の仕事に差しさわりがでるからでしょうか?私はおかしいと思います。

 コメンテーターにしても地域の希薄化は言っても、子育ては男女が共同でしていくことだという考えがないのか、全くその事は出てきません。 また、夫に悩みを話せなくても、地域の人たちの中に心を許して話せる人が一人でもいれば今回の事は起こらなかったと思うのです。もちろん、二人も人を殺したのですから、彼女の罪は大きいです。でも、私は、どうしても容疑者に対して哀れさと日本人として申し訳なさを感じてしまうのです。何とかできなかったのか?

 私は数年前から「学社融合研究会」に入っています。ここでは、「加害者を出さない地域にしよう」と言っています。これは、「被害者を出さない」と普通言われている事よりは、一歩進んだ考えであり、優しさがあります。加害者が出るような環境ではなく、みんなで支えあい、助け合っていこうとこういう考えが基本にあるから、「加害者を出さない地域にしよう」ということなのです。こう言う考え方が地域にも人々にもあれば、今回の事件はおきなかったのではないかと、やりきれない思いになります。

 私が以前居住していたNZでは、今回のような事件は考えられないことです。私が、住宅地に家を借り、引越しの荷物を解いているときから、近所の方々が次々に私たちを訪れてくださいました。「自分は、あそこの○○だけど、何かお手伝いがあったらするよ」、「これは我が家の庭で取れたトマトだけど、どうぞ!」ともってきてくれたり、中には「あなたの趣味はなに?」「編み物です」と答えたら、「じゃあ、今度編み物の会に一緒にいこうね」といって、後日本当に車で連れて行ってくださったこともありました。このように近所の人に助けられた事は数知れません。だから、私は2年間一度もホームシックにはなりませんでした。

 こういうこともありました。NZの人と友達になりたいので油絵を習いに行きました。みんな油絵そっちのけでいろいろ話す人ばかりで賑やかでした、。もちろん、日本人は私一人ですが、ひとしきり彼女たちがおしゃべりした後、必ずマリーが「あのね、いま私たちが話していた事は、こういうことだったの」と私に理解できるようにゆっくりと話してくれ、絶対に私が一人ぼっちにならないように、毎回気遣ってくださいました。そして、時には「今日は、私の家でランチを一緒にしようね」といって昼食をご馳走になったり。ランチにしても質素で、トマトにしても小さなトマトです。でも、そんな事は問題ではありません。恥ずかしい事でもありません。見栄えではないのです。人をもてなす「心」なのです。

 このようにNZの友人は常に私がNZの生活を、いかに楽しく過ごす事ができるか、気をつかってくださいました。彼の地の人たちには「人は一人ひとり違うもの、その違いを認め合って共に生きよう」という考え方と「まず愛されるより、愛する方が先」という生きる姿勢があるのです。

 そう思いながら日本を考えたときに「異質なものは排除する、グループを大事にするが、それに属する人たちのみに身内意識をもって関わり、それ以外の人には無関心」という考え方が基本にあります。、最近では、それに加えて「自分の得になる事はするが、そうでなければ関わらない」という風潮が出てきました。阪神・淡路大震災のときに一端根付いたボランティア活動も日本の「失われた10年」の間に、またもとの木阿弥となってしまったようです。

 そうではなく、日本人のみんなが、NZの人たちのように外国から来た人が、いかに自分の国でハッピーに生きていく事ができるかを、自分のこととして考えなければいけないと思うのです。そのためには、まず、なによりも近隣の人たちに無関心ではないこと、気軽に挨拶を交わすことから始めていく事です。もちろん、異国から来た人には、それ以上の気遣いをする事が求められます。
 
 容疑者は、外国人にしては、また、日本にきてから日が浅いにも関わらず、かなり上手に日本語が話せていたという事は、彼女が日本に馴染もうとして一所懸命努力をした結果だと思うのです。しかし、言葉にはその裏にある文化、環境・慣習などがあり、その違いを理解し、日本の生活に慣れるには時間がかかるのです。そのことについては、私たち日本人が少しずつ、根気よく付き合っていくことで解決できると思います。

 長くなりました。今日はここまでにします。次には、私が日本で外国の人たちと、どう付き合ってきたかを書きたいと思います。

by eastwaterY | 2006-02-18 14:26  

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