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マザー・テレサ映画祭

1か月近くご無沙汰をしてしまいました。
私の愛するパソコンが入院をしていて、やっと我が家へ帰ってきました。どうしてもブログに書きたいことがあって、この日を待っていました。映画を観て、すぐに書いたので、1か月前の原稿です。

マザー・テレサの生誕100年記念として日本各地で映画祭が開催されました。広島市でもキリスト教カトリック信者の人たちが「マザー・テレサ映画祭広島」を立ち上げ、8月21~9月3日まで「マザー・テレサとその世界」、「マザー・テレサの祈り 生命それは愛」、「母なるひとの言葉」、「マザー・テレサと生きる」、「マザー・テレサの遺言」など全部で10本近いドキュメンタリー映画が上映されました。私は上記のうち、最後から2本を観ました。

マザー・テレサは1984年秋来日、広島も訪問されました。その時に遺された言葉は次の通りです。

“愛せるようになるには、祈ることです。神さまが、わたしたちを愛して下さっていることに感謝して、いただいた愛を他の方に分けましょう。それは、ほほえむだけでいいのです。そう、にっこりほほえみましょう。お年寄りも独りぼっちでわびしい人たち、皆にのけ者にされている人、絶望している人、・・・・・そういう人たちに、ほほえみをかけられるように、そして皆さんが持っているものを分け与えられますように・・・・。”

この言葉どおり、マザー・テレサが忙しいスケジュールの中で一番に訪れたのは、釜が崎、山谷などホームレスの人たちが住んでいる町でした。映像でも、マザー・テレサは、路傍で寝転んでいる人、かがみ見込んでいる人に目を留め、一言言葉を掛けて通っていました。
マザー・テレサが離日するときに、私達日本人に遺された、もうひとつの言葉を忘れることができません。

“日本は、経済的には豊かな国かもしれません。しかし、とても淋しい国という印象を受けました。人と人とのつながりがなく、淋しい思いをしている人たちが多いのです。”(マザー・テレサの言葉を私流に受け取って書いているので、正確ではありませんが、そのように仰ったと記憶しています)。
実際に、マザー・デレサに会った人たちは、それぞれにこのように言っています。
「自分の全てを犠牲にして、他人のために尽くし、また、そうすることが当り前だと思っている方でした」、「はじめて会ったときには、“怖い”と思いました。でも、それは思った以上に身体が大きく、威厳が合ったので、そう感じたのでしょう。それは第一印象だけで、共にミサを受けたときにはその温かく優しい人柄に触れ、大きな感銘を受けました。」

マザー・テレサが広島を訪問され、原爆資料館で原爆投下地点のパノラマの前に立たれたときに心痛な顔をし「ご説明をお聴きする前にお祈りさせて下さい」と申し出があったとのこと。十字を切って、深いお祈りをし、それから静かに説明を聞かれたとのことでした。
その後、慰霊碑の前に来られた時、説明の前にマザー・テレサからのお願いがありました。
「犠牲者の皆様に冷たいお水を捧げたいので、お水を用意してくださいますか」と。
毎年、8月6日は照りつけるような暑さですが、その日も同じでした。マザー・テレサは、火傷した人々が一滴の水でも渇望したことを想像されたのでしょう。用意した水を酌で
慰霊碑に献水され、静かに慰霊碑にお祈りをされたとのことでした。

広島市の職員でその日、通訳としてマザー・テレサへの案内をしたFさんは、「国賓、公賓など多くのVIPを慰霊碑に案内したが、このようなことは一度も経験していない」、と言い、「マザー・テレサが苦しんでいる人の心が分かり、苦しみや共有される敬虔な心をもっておられることを実感し、マザー・テレサの深い愛と慈しみの心を一生忘れることができない」と語っておられました。

映画においても、随所にそのような生き方をされているマザー・テレサの姿が取り上げられていました。マザー・テレサは「どんな時も天国へ召される時には一人にしてはいけない。人々に囲まれ、その人たちの微笑と愛を受けて旅立つことが大切です」と言い、
インドの貧民街で、瀕死の人をホームに運び込み、その人が幸せのうちに旅立つようにみんなで見送っておられました。

現在の日本人の生き方と高齢者の人たちの現況を考えるとき、マザー・テレサの「慈しみと愛の心を忘れてはいけないと思います。一番、短い言葉で一番重く、大切な」言葉をマザー・テレサは私たちに残して下さっています。それは・・・・

「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」

by eastwatery | 2010-09-27 20:26  

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