人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「原爆投下後65年目の広島」で考えること(2)


このような私たち子どもの話を母は、どんな気持ちで聴いていたのだろうと、今になって思います。不思議なことに、母は、どんなに苦しい時でも「原爆を落としたアメリカが憎い!」などと言ったことは、一度もありません。夕食の団欒では、いつも一人一人の子どもの、楽しかった話や出来事を嬉しそうに聴いていてくれました。小さなお店での商いだったので、店を閉めた後も、母は仕立物の内職をして生計立てていました。

しかし、豪農の長女として何不自由なく育った母、結婚後も手広く商業デザインの仕事をしていた父の妻としてゆったりと幸せな生活を送っていた母にとっては、生活の激変の中で生きていくことは並大抵のことではなかったと思います。しかし、愚痴をこぼすこともなく、「あなたたち子どもがいるから、なんとかやっていけるのだ」、「参観日に行っても、どの子も良い子だと先生が言われるので嬉しい」といつも私たちに言ってくれていました。

母がそのように強く生きて私たちを育ててくれたのには、父と母が深い愛情で結ばれていたからだということが、私が成人した時に母が話してくれた話から分かりました。
母は父との結婚生活について、「お父さんと一緒に暮したのは、10年だったけど、お母さんはお父さんに10年の間に一生分愛してもらったと思っているの。4人の子どもを寝かしつけた後、お父さんと二人で夜遅くまで話したことを時々思い出すの」と幸せそうに話してくれました。

母は、広島に原爆が投下される前日の8月5日も家の整理などで自宅へ行き、その日は泊る予定にしていました。しかし、父が「もし、何かがあって夫婦二人が死んでしまったら、子どもたちは、みなし子になってしまう。大変だと思うが、頼むから疎開先へ帰ってほしい」と言ったそうです。そのおかげで、私たち4人の子どもは、原爆孤児になることもなく、今の生活があると思うと、父の愛情を改めて深く感じるところです。

ここで、もう一つお伝えしたいことがあります。

私が結婚するとき、母は「お父さんは、子どもが生まれる度に、その子その子への願いを込めて絵を描いていたの。この絵は、あなたが生まれた時に描いて下さったものだから、東の家にもって行きなさい」といって、一幅の表装をした日本画を差し出しました。

そこに描かれていたのは、平安時代の「おすべらかしの髪」の若い女性でした。それまで、私が父の愛情を受けたと感じたのは、父が(前述の)防空壕へ抱えて降ろしてくれたことや、夕食の団欒で母が話してくれる父親しか頭の中にはありませんでした。

しかし、この話を母から聞いて以来、和室の床の間の父の絵を見ながら、人というのは生きていなくても、その人が自分のために残してくれたものから、十分に愛情を感じることができるのだと、親の思いの有難さ、大切さに思いを寄せるようになりました。それは同時に「親は、子どもに何を残してやればいいのか」ということ、言葉、もの、文章などいろいろありますが、それらが子どもに対してどんな時にも「生きる力」を与えることになる、と思うようになりました。

そして、このことは私が息子が誕生以来、彼に関するエッセイを書くことにつながっています。

by eastwatery | 2010-08-23 10:08  

<< 「原爆投下後65年目の広島」で... 「原爆投下後65年目の広島」で... >>